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'''賢俊'''(けんしゅん、[[正安]]元年([[1299年]]) - [[正平 (日本)|正平]]12年/[[延文]]2年[[7月16日 (旧暦)|7月16日]]([[1357年]][[8月2日]]))は、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の[[真言宗]]の[[僧]]。父は権大納言[[日野俊光]]。兄弟に[[日野資名]]・[[日野資朝|資朝]]。俗名は'''日野 賢俊'''(ひの たかとし)。菩薩寺大僧正。
 
[[醍醐寺]]宝池院流[[賢助]]に師事して[[密教]]を学ぶ。元応2年12月4日、今熊野において入壇(正式な受戒)の儀式が行われた(『五八代記』)。元弘の変の最中の元弘元年9月4日、東宮量仁親王([[光厳天皇]])ら持明院統の皇族が退避していた[[六波羅探題]][[北条仲時]]邸において[[尊円法親王]]・賢助らによって[[五壇法]]が行われた際、賢助の補佐として「賢俊権大僧都」の名が見られる。2年後、師・賢助の死に際してその後継者に指名された。
[[醍醐寺]]宝池院流[[賢助]]に師事して[[密教]]を学ぶ。南北朝時代の内乱では[[足利尊氏]]方につき、後醍醐天皇の信任を受け権勢を誇っていた[[文観]]を排除し、[[1336年]]([[建武 (日本)|建武]]3年/[[延元]]元年)、権大僧正に任じられて醍醐寺座主・[[根来寺]]座主となる。同年2月尊氏が九州に走った際にはそれに従い、陣中の群議にあたった。また[[持明院統]]([[北朝 (日本)|北朝]])の[[光厳天皇|光厳上皇]]の[[院宣]]と錦旗を尊氏に伝える役割を果たし、室町時代の[[足利将軍家]]と[[日野家]]の関係の端緒となる。
 
[[醍醐寺]]宝池院流[[賢助]]に師事して[[密教]]を学ぶ。南北朝時代の内乱では[[足利尊氏]]方につき、後醍醐天皇の信任を受け権勢を誇っていた[[文観]]を排除し、[[1336年]]([[建武 (日本)|建武]]3年/[[延元]]元年)、権大僧正に任じられて醍醐寺座主・[[根来寺]]座主となる。同年2月尊氏が九州に走った際にはそれに従い、陣中の群議にあたった。また[[持明院統]]([[北朝 (日本)|北朝]])の[[光厳天皇|光厳上皇]]の[[院宣]]と錦旗を尊氏に伝える役割を果たし、室町時代の[[足利将軍家]]と[[日野家]]の関係の端緒となる。
 
尊氏の[[護持僧]]として権勢をふるい、[[醍醐寺]]に食邑として6万石を寄進されて伽藍を整備し、さらに京都に新[[三宝院]]を造営・寄進されてその院主となった。[[1340年]](暦応3年/興国元年)に[[東寺長者]]、[[1342年]](康永元年/興国3年)法務大僧正に就任。[[1350年]](観応元年/正平5年)東寺長者の職を辞して尊氏の九州鎮定にしたがっている。
 
『三宝院賢俊像』は醍醐寺所蔵、また『三宝院賢俊僧正日記』がある。
 
== 参考文献 ==
*森茂暁「三宝院賢俊について」(初出:九州大学国史学研究室 編『古代中世史論集』(吉川弘文館、1990年) ISBN 978-4-642-01051-1/所収:森『中世日本の政治と文化』(思文閣出版、2006年) ISBN 978-4-7842-1324-5 第2章第1節)
 
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