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===近世===
このような商業網の変化に加え、[[ズウィン]]が土砂の堆積によって航行困難となったこともあり、中世後期におけるネーデルラント経済の中心[[ブルッヘ]]が衰退するとしていき、それに代わってスヘルデ河畔のアントウェルペン(当時は[[ブラバント公国]]の支配下)が重要性を増すことになった。ライン川沿いの[[ケルン]]商人との結びつきを強めたことでヨーロッパ商業網における地位は一層強化され、15世紀末には外国商館がブルッヘからアントウェルペンへと移転し始めた。1501年にはスヘルデ河岸にポルトガル船が香辛料などを積んで到来し<ref>中澤勝三『アントウェルペン国際商業の世界』同文館、p.66</ref>、1508年にはポルトガル王のもとで商館設立したほかされ<ref>フェルナン・ブローテル『世界時間1 物質文明・経済・資本主義15-18世紀Ⅲ-1』村上光彦訳、みすず書房、1996年、pp.186-187<ref>、1510年におけるイングランド商館についての記載も史料に残されている。
 
歴史家[[フェルナン・ブローデル]]は、「このスヘルデ川に臨む都市はじつに国際経済全体の中心にあった。ブリュージュはというと、その最盛期にあっても、その地位まで到達したことがなかったのである」<ref>フェルナン・ブローテル『世界時間1 物質文明・経済・資本主義15-18世紀Ⅲ-1』村上光彦訳、みすず書房、1996年、p.181</ref> と評している。そのアントウェルペンの黄金時代は、強く「[[大交易時代]]」と関連しており、16世紀前半より成長を遂げて1560年までにはアルプス以北における最大規模の都市となった。多くの外国商人が街に居住し、ポルトガル船からは胡椒やシナモンなどの積荷が日々下ろされていた。[[ヴェネツィア]]の大使だった[[フランチェスコ・グイチャルディーニ]]は、何百の船舶が一日に往来し、二千もの荷馬車が毎週やってくることを記している。
 
ヴェネツィアやジェノヴァの繁栄は各地へと赴いた地元出身の商人によって支えられていたが、アントウェルペンの場合は同市出身の商人が世界各地に勇躍していったわけではない。アントウェルペン経済は、ヴェネツィアやラグーザ([[ドゥブロヴニク]])、スペイン、ポルトガルなど各地からやって来た商人たちの手で支えられており、このことが都市内の多様性・コスモポリタン的性格を形成していった。(市政は地元の土地貴族らによる寡頭政がとられていたが、彼らは原則上実業に従事することを禁じられていた。)宗教的にも寛容で、ユダヤ教正統派の大規模なコミュニティも形成されたほか、イベリア半島を追われた「[[マラーノ]](マラノス)」の亡命先や、プロテスタントの拠点ともなり得たのである。しかしながら、アントウェルペンは(ヴェネツィアやジェノヴァのような)「[[自由都市]]、[[自治共和国]]」というわけではない。一時はブリュッセルのブラバント公による支配から離れたものの、1406年より再びブリュッセルの統制下に置かれていた。
 
アントウェルペンはこの黄金時代に1501-1521年、1535-1557年、1559-1568年と3回の好況を迎えた。<ref>フェルナン・ブローテル『世界時間1 物質文明・経済・資本主義15-18世紀Ⅲ-1』村上光彦訳、みすず書房、1996年、pp.185-186<ref>最初の繁栄は、ポルトガルからもたらされた胡椒であった。この好況は1521年より[[イタリア戦争]]が深刻化し、[[ヴァロワ家]]と[[ハプスブルク家]]の間の戦乱によって国際商業が麻痺したことで収束していった。次の時期は、[[セビーリャ]]経由でアメリカ大陸産の銀が流入したことであった。これはスペインの国家財政が破綻する1557年に収束していった。最後の時期は、1559年に[[カトー・カンブレジ条約]](イタリア戦争の最終的な講和条約)が締結されたことに伴う政治的安定であった。この時期にはイギリスと競合しつつも繊維産業が発展をみせた。
 
当時のコスモポリタン的性格を持つ商業拠点という特質は、この都市にもう一つの重要な特徴を与えた。それは出版文化の一大拠点という機能である。16世紀のアントウェルペンは、現地フラマン語の文献のみでなく、英語やフランス語の出版・輸出拠点として栄えた。のみならず、宗教的に寛容な性格のため、プロテスタントの文献も多く出版されたのである。結果として、当時のネーデルラントで出版された文献のうち、実に半数以上がアントウェルペン刊だったとされている<ref name=miyashita>[[宮下志朗]]「16世紀出版文化の中のノストラダムス」(『ノストラダムスとルネサンス』岩波書店、pp.133-135)</ref>。16世紀後半で最も偉大な印刷出版業者ともいわれる<ref>http://whc.unesco.org/en/list/1185/</ref>[[クリストフ・プランタン]]の工房は市内に現存しており、[[プランタン=モレトゥスの家屋・工房・博物館複合体|プランタン=モレトゥス博物館]]([[世界遺産]])として、当時の出版文化を伝えている。
この事件でネーデルラントの反スペイン勢力は一時的に妥協を余儀なくされたが([[ヘントの和約]])、アントウェルペン市民の反スペイン感情は深まった。1579年の[[ユトレヒト同盟]]にもアントウェルペンは加わり、反スペインの姿勢を鮮明とした。しかし、1583年末までに同市の周辺地域はスペインに占領されており、オラニエ公もネーデルラント北部の戦闘に向けて同市を離れた。アントウェルペンに迫るスペイン軍に対して、当時の市長フィリップ・ド・マルニックスはポルダーを決壊させるなど長期の抵抗をみせたが、市内の食糧備蓄が限界に近づくと、1585年8月にスペイン側のパルマ公[[アレッサンドロ・ファルネーゼ]]に降服を余儀なくされた。
 
降伏条件の一つとして、プロテスタントの市民は、アントウェルペンを立ち去るまでに2年間の猶予が与えられた。<ref>Boxer Charles Ralph, ''The Dutch seaborne empire, 1600-1800'', p. 18, Taylor & Francis, 1977 ISBN 0091310512, 9780091310516 [http://books.google.co.uk/books?id=Fx4OAAAAQAAJ&lpg=PA18&ots=SlccMb5Lje&dq=Antwerp%20surrender%20Protestant&pg=PA18#v=onepage&q=Antwerp%20surrender%20Protestant&f=false Google books]</ref> そのほとんどがネーデルラント連邦共和国([[オランダ]])へと移住したことは、オランダが黄金時代を築いていく前提となった。一方、その後のアントウェルペンにおける銀行業務はジェノヴァ商人の統制下におかれた。こうしたことの結果、アントウェルペンに代わってオランダの[[アムステルダム]]が世界商業・金融の中心地となっていった。
 
1648年、[[三十年戦争]]の講和条約である[[ウェストファリア条約]](そのうちのミュンスター条約)でオランダの主権が認められると、オランダはアントウェルペンの商業活動に壊滅的な打撃を与えるため、スヘルデ川の河口を閉鎖することを要求した。これには、スペイン・ハプスブルク家の統治下にある南ネーデルラントがオランダの脅威にならないようにする狙いがあったのだが、ネーデルラント南部が1795年から1814年まではフランスの統治下にあったこと、1815年から1830年まではオランダ立憲王国の統治下にあったことで、実際にはその統制は緩められていた。
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