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特徴は命中に重点が置かれ、射距離によって標的のどの部分を狙うか、伝書に図入りで示され、目的に応じた各種の「射撃姿勢」が描かれ,各据銃姿勢による体の各部位の力の配分や、息遣い、また、「寒夜聞霜(照準時の心持として寒夜に霜を聞くことができるような精神統一)」等を名言として伝えた。また遠距離を狙う場合、単に照星、照門(先目当、前目当)での照準にとどまらず、二つの照準器の間に在る小型の照準器との兼ね合いで照準したり、照門に「矢倉(やぐら)」と云う秘伝のアタッチメント「照尺」を付け、仰角をつけて撃つ等の業があり、また距離、口径、季節等の変化に対応した、火薬剤の配合比率等が秘伝として伝えられた。
 
[[天保]]年間に[[高島秋帆]]によって西欧の火器用兵術が紹介され、殊に武州徳丸原(ぶしゅうとくまるがはら=現、[[東京都]][[板橋区]]高島平)での公開演練の後は、[[江戸幕府]]や西南雄藩において「高島流砲術」として導入され急速に普及した。最盛期には400もの流派があった。
これはこれまでの砲術と異なって、命中精度より集団運用による所謂「弾幕を張る」等の用兵が主であり、それまで日本に無かった「号令」(日本には「命令」はあっても「号令」は無かったと云う)による一糸乱れぬチームーワークで火器を駆使するための戦術プラス銃砲術の性格を持ったものであった。折りしも欧米列強の外圧や[[幕末]]の動乱等の時代に至り急速に普及した。さらに江戸幕府及び西南雄藩等では独自に[[イギリス]]、[[フランス]]の教練書を翻訳し、銃器や戦術の進歩に対応した『英國歩兵練法』『佛蘭西歩兵操練書』等の教練書を作成して「鉄砲組」は「歩兵隊」または「銃隊」へと改組され、これまでの和流砲術家達も洋式砲術を学びなおす等により和流砲術は消滅していったが、明治以降一部の流派は祭礼の行事として残り空砲による発砲演武が行われてきた。福岡市では昭和の初め頃まで海上に向けて実弾を放ったと伝えられる。第二次大戦後、他の武道と同様にそれらは禁止されたが、戦後復興と共に行事が復活し、東京五輪の「射撃競技」の開始式典で大戦前から伝統の米沢市の「砲術隊」等による演武が行われた。その後各地に「地域おこし」の鉄砲隊が誕生した。それらの中には砲術流派を名乗るものも多いが、それらは藩政時代の伝書からの再興によるものである。
 
===流派===