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秦檜は死後、売国奴の汚名を着せられた。完全に無実であったにもかかわらず、岳飛に罪を着せて謀殺した行為が、後世大いに非難の対象となったからである。秦檜自身も岳飛を殺すことについては大いに悩んだが、妻にうながされて殺すことを決意したという。そのため、岳飛を殺したのは秦檜夫妻だとみなされており、[[岳王廟]]には夫婦の像が縄に繋がれる姿で置かれている。以前の中国にはこの像に唾を吐きかける習慣があった(現在では「像に唾を吐いたり、叩いたりしてははならない」という掲示がある)。また小麦粉の棒を秦檜夫妻に見立て、油で揚げる食べ物を[[油条]]という。南宋が滅びた後も岳飛が英雄視されるに伴い、ますます秦檜の悪名は高まり、いつの時代でも売国奴の代名詞として扱われるようになる。
 
当時の金と南宋の国力の差を考えれば、[[華北]]を奪還することは不可能であり、和平を進めた秦檜は正しかったとの擁護論もあり<ref>[[宮崎市定]]「宋代官制序説」他多数</ref>{{要出典}}、そもそも帝意は和平にあったのだから、臣下として和平を推し進めるのは当然であるとも言える。さらには軍閥勢力を抑え込み、文治主義を推し進めるのは[[趙匡胤|太祖趙匡胤]]以来の[[宋 (王朝)|宋]]の国策であり、秦檜も高宗もそれに従ったに過ぎないとも言える。秦檜の政治能力も水準を越えており、北から追われてきた南宋が国家として安定したのは秦檜の手腕によるところが大きい。屈辱的とされる講話条件の内容も、国境に交易所を設置するという内容も含まれており、結果論ではあるものの実利の上で南宋有利な内容であった。
 
しかし、秦檜がその政治的成果をあげるにあたって、岳飛に冤罪を着せ謀殺するなどの卑劣な手段を用いて対金強硬派を弾圧したことも事実である。また、講和によって宋が経済的な実利を得たとしても、儒教的な価値観においては喜ぶものではなく、国家の体面のほうが重要視される([[朝貢貿易]]にも見られるように、実利を失っても体面を保つ事を、歴代の中国政権は重要視する)。そのため、後世の評価や人気は極めて低い。