「アドルフ・ブロツキー」の版間の差分

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ブロツキーは音楽教師としても活躍し、[[1883年]]から[[1891年]]まで、[[ライプツィヒ音楽院]]で教壇に立ったのを皮切りに、その後は[[1895年]]から没するまで[[王立マンチェスター音楽大学]]で教鞭を執った。
 
[[ライプツィヒ]]時代にブロツキーが[[クリスマス]]の晩餐会を催した席にて、[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]とチャイコフスキー、[[エドヴァルド・グリーグ|グリーグ]]が出逢い、とりわけチャイコフスキーとグリーグの間で互いへの尊敬と、友情が芽生えるきっかけとなった。
 
また、[[ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団]]の首席奏者で構成されるゲヴァントハウス弦楽四重奏団で第二バイオリンを担当するなど、教育のみならずプレーヤーとしても活躍を続けた。
 
1891年10月にブロツキーは夫人を連れて[[ニューヨーク]]に上陸し、[[ニューヨーク交響楽団]]と共演した。それから3年後に[[ヨーロッパ]]に戻り、[[ベルリン]]に住んだ。その後は[[チャールズ・ハレ]]に招かれて[[イギリス]]に渡り、[[マンチェスター]]で教育活動に携わりつつ[[ハレ管弦楽団]]の[[指揮者]]も務めた。