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[[画像:Gallienus bust.jpg|200px|thumb|right|ガッリエヌス]]
'''プブリウス・リキニウス・エグナティウス・ガッリエヌス'''(羅:{{lang-la|'''Publius Licinius Egnatius Gallienus'''}}, [[218年]]頃 - [[268年]])は、[[軍人皇帝時代]]の[[ローマ帝国]]の[[皇帝]](共同皇帝としての在位:[[253年]] - [[260年]]、単独では[[260年]] - [[268年]])。父親の[[ウァレリアヌス]]と共に、[[エトルリア]]の血を引いていたという。
<!-->[[デキウス]]・[[トレボニアヌス]]・ウァレリアヌス・ガッリエヌスは、みなエトルリアの血を引いており、その事による結び付きがあったという説がある。{{要出典}}<-->
 
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[[253年]]に父のウァレリアヌスと共に共同皇帝として即位し、ウァレリアヌスは帝国東部の戦線を、ガッリエヌスは帝国西部の戦線を担当することになった。
 
[[256年]]、ペルシア([[サーサーン朝]])皇帝[[シャープール1世]]が、ローマ帝国領[[カッパドキア]]に侵攻。ウァレリアヌス率いるローマ軍は、[[259年]]に[[シリア属州]]の[[アンティオキア]]に到着する。ここを前線基地として、ペルシアとの戦いが開始された。ところが、父である皇帝[[ウァレリアヌス]]が[[260年]]に[[エデッサの戦い]]に敗れて[[ペルシア]]に捕らえられたことにより、共同皇帝から単独皇帝に登位。ローマ皇帝捕囚のニュースはローマ帝国の権威を失墜させ、[[ポストゥムス|マルクス・カッシアニウス・ラティニウス・ポストゥムス]]らによる[[ガリア帝国]]が出現した。
 
東方属州でもフルウィウス・マクリアヌス([[:en:Macrianus Major|en]])らが皇帝を僭称した。一方、ガッリエヌスは当時通商都市の一つであった[[パルミラ]]の実力者・[[セプティミウス・オダエナトゥス]]と結び、オダエナトゥスは軍隊を率いてペルシア軍の宿営地、アンティオキアに夜襲をかけてペルシア軍を敗走させ、[[エメサ(現:[[ホムス]]で皇帝を僭称していた[[ティトゥス・フルウィウス・ユニウス・クィエトゥス]]を討ち果たした。
 
しかし、帝国の権威失墜により[[ゴート族]]をはじめとする蛮族による帝国進入も激しくなる。また、オダエナトゥスはローマのために、さらに小アジアのゴート族を討伐に出かけてそれに成功して帰還したが、甥の[[マエオニウス]](Maeonius)との諍いから、宴会の最中、彼に暗殺されてしまった。オダエナトゥスの妻・[[ゼノビア]]がマエオニウスを処刑し、幼少の息子[[ウァバラトゥス]]を後継者に据えてパルミラの実権を握ると、ゼノビアは今までのパルミラの方針を転換し、公然とローマに反旗を翻した。こうしてローマ帝国は、[[ガリア帝国]]・[[パルミラ王国]]による帝国三分割を許してしまう。
 
この事態に、皇帝ガッリエヌスは精力的に蛮族撃退に繰り出すが、ガリア帝国・パルミラは現状のまま放置することになった。蛮族対策のために騎兵部隊を軍の主力とし、ローマ軍、ひいてはローマ市民層の変質をもたらした。ポストゥムスや[[アウレオルス]]ら皇帝を僭称する者達も相次ぎ、ローマ帝国の歴史においても屈指の国難の中、奮闘に奮闘を重ねたが結果が伴わず、[[クラウディウス・ゴティクス]]らのクーデターにより殺害された。
 
ガッリエヌスは当時の国難に対処するための下記のような対処を重ねたが、結果、危機はますます深刻化した。
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== 参考文献 ==
*クリス・スカー 『ローマ皇帝歴代誌』 青柳正規監修、月村澄枝訳『ローマ皇帝歴代誌』、[[創元社]]、1998年、300頁。
*Bray,John.Gallienus :A study in reformist and sexual politics,us,wake field ,1999,p.404.