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'''桓 玄'''(かん げん)は、[[中国]][[東晋]]の[[軍人]]、[[政治家]]。東晋の[[安帝 (東晋)|安帝]]より[[禅譲]]を受け、楚朝を建てるが、3ヵ月後に[[劉裕]](後の[[宋 (南朝)|宋]]の武帝)の挙兵によって殺された。
 
[[桓温]]の庶子として生まれ、その才能を愛されて後継とされた。桓温の死後は叔父の桓沖の後見を受けた。若い頃から博学で知られ、23歳の時、太子洗馬となるが、父の桓温が東晋の簒奪をもくろんだ人物だったことから罷免され、しばらくは無官の時期を過ごす。その後、義興(現在の[[江蘇省]][[宜興]])[[太守]]となるが「父は九州の伯と為り、 兒は五湖の長と為る(父・桓温は(東晋)全土の覇者となったのに、息子の自分はただの五湖([[太湖]])の長程度か)」と嘆息して辞任した。
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しかしそのわずか3ヵ月後の[[404年]]2月、かつての劉牢之配下の武将であった劉裕が桓玄打倒のクーデターを起こし、敗れた桓玄は建康を脱出して西へ逃れた所を[[益州]][[都護]]の馮遷に殺された。桓玄を討った劉裕は、安帝を復位させ全権を掌握し、その後は北伐と反対派の粛清によって自らの権威を着実に固めた後、[[420年]]、禅譲によって皇帝に即位し、宋を建国した。
 
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[[Category:南朝の皇帝]]
[[Category:魏晋南北朝時代の人物]]