「少帝弁」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Ver-bot (会話 | 投稿記録)
m ロボットによる 追加: pl:Liu Bian
編集の要約なし
23行目:
'''少帝弁'''(しょうていべん)は[[後漢]]の第13代[[皇帝]]。
 
[[霊帝 (漢)|霊帝]]の崩御に伴い母[[何太后]]とその兄である[[大将軍]][[何進]]により擁立された。しかし何進が[[宦官]]によって暗殺され、その時期に[[洛陽]]に入ってきた[[董卓]]によって異母弟の[[献帝 (漢)|劉協]](献帝)擁立されたために廃位となり、[[弘農]]王に封じられた。
 
その後、董卓による専制に反発した諸侯による董卓討伐戦が起こったとき、反乱軍に擁立されることを恐れた董卓に命じられた[[李儒]]によって、[[長安]]遷都前に毒殺された。懐王と諡され、実質的に皇帝とは認められなかった。
 
劉弁の在位はわずか5ヶ月に過ぎないが、地方豪族のひとり一人ぎない董卓に廃立されたことは、事実上、後漢の滅亡を意味していた。
 
[[三国志演義]]では、劉弁は劉協よりも若干年上の少年であったが、劉協のほうが聡明さがあり、逆に劉弁は暗愚であったために何太后と共に李儒により高所よりから突き落とされ殺害され
 
ちなみに、劉弁の即位当時の年齢17歳というのは、後漢歴代皇帝の即位時年齢の中で4番目の高齢にあたる。劉弁より上位の3人は初代[[光武帝]]、2代[[明帝 (漢)|明帝]]、3代[[章帝]]である。こうした事実は、後漢朝の歴代皇帝がいかに幼く権力のない皇帝ばかりだったかを証明するような話である。
 
{{後漢の皇帝|第13代}}