「伊達実氏」の版間の差分

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| 生誕 = [[承応]]3年([[1654年]])
| 死没 = [[享保]]2年[[7月8日 (旧暦)|7月8日]]([[1717年]][[8月14日]])
| 改名 = 伊達敏清→中村宗氏→伊達宗氏→伊達実氏
| 別名 = 兵力、藤五郎、刑部、伊豆、安房、能登
| 諡号 =
| 神号 =
| 戒名 = 祥雲院殿連峰義天大居士
| 霊名 =
| 墓所 = [[大雄寺 (亘理町)|大雄寺]]([[宮城県]][[亘理郡]][[亘理町]])
| 官位 =
| 官位 = [[伊豆国|伊豆守]]、[[安房国|安房守]]
| 幕府 =
| 主君 = [[伊達綱村]]→[[伊達吉村|吉村]]
| 藩 = [[仙台藩]]
| 氏族 = [[伊達氏]]
| 父母 = 父:[[伊達宗敏]]、母:千代鶴([[石川宗敬]]の娘)<br />養父:''[[伊達基実]]''
| 兄弟 = [[伊達敏親|敏親]]、'''実氏'''、[[伊達敏重|敏重]]、[[石川宗恒]]、女子<br />鶴松([[伊達宗元]]室)、嶺松([[津田景康]]室)、美喜([[後藤節康]]室)
| 妻 = 正室:[[伊達宗成]]の娘・'''虎乙'''
| 子 = '''[[伊達村成|村成]]'''、四郎、女子([[大條道頼]]室)
| 特記事項 =
}}
'''伊達 実氏'''(だて さねうじ)は、[[江戸時代]]の[[武士]]。[[仙台藩]]一門第二席・[[亘理伊達氏]]第5代当主。
 
== 生涯 ==
[[承応]]3年([[1654年]])、仙台藩一門[[岩出山伊達氏]]第2代当主・[[伊達宗敏]]の次男として生まれる。当初幼名別家を興して'''中村宗氏兵力'''と名乗った
 
初めは'''伊達敏清'''と名乗ったが、[[延宝]]5年([[1677年]])1月に中村姓を下賜されると、名を'''中村宗氏'''と改めて別家を興し、一家の家格を与えられ100貫(1,000石)を分知された。
 
[[天和 (日本)|天和]]2年([[1682年]])1月25日、亘理伊達氏第4代当主・[[伊達基実]]が跡継ぎの無いまま急死すると、本藩は基実の従弟・[[亘理元篤|藤吉]]を跡取りとし、知行は1,000貫(10,000石)を残して召し上げるという裁定を下した。しかし基実の母・[[清霄院]]と亘理家中はこの裁定に猛反発して亘理領の完全相続を要求し、同時に藤吉の父である涌谷[[伊達宗元]](清霄院の兄)が幼少を理由に入嗣辞退を申し入れたこともあり、宗氏を基実の妹・虎乙の婿として当主に迎えたいと願い出た(「天和の訴願」)。
 
2月11日、この訴えが認められて宗氏が亘理伊達氏第5代当主となった。宗氏は領内の統治に努め、[[元禄]]8年([[1695年]])には家臣団に黒印状を発給して知行を確定させた。[[宝永]]4年([[1704年]])に家督を嫡男・[[伊達村成|村成]]に譲り隠居し。実氏は鹿島村に屋敷を構え、[[亘理城]]下の末家(ばっけ)に窯を築いて御庭焼を始めた。これが[[末家焼]]の起こりである。[[享保]]元年([[1716年]])、この年に将軍となった[[徳川吉宗]]の諱を避けて'''実氏'''と改名した
 
[[宝永]]4年([[1704年]])に家督を嫡男・[[伊達村成|村成]]に譲って隠居する。[[享保]]元年([[1716年]])、この年に将軍となった[[徳川吉宗]]の諱を避けて'''実氏'''と改名した。
 
享保2年([[1717年]])7月8日死去。享年64。[[昭和]]49年([[1974年]])、[[大雄寺]]の実氏[[廟|霊屋]]が、[[伊達実元|実元]]霊屋・[[伊達成実|成実]]霊屋と共に亘理町より文化財指定を受けた。
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== 系譜 ==
*父:[[伊達宗敏]]
*母:千代鶴([[石川宗敬]]の娘)
 
*養父:[[伊達基実]]
 
*正室:虎乙([[伊達宗成]]の娘)
**[[伊達村成]]
**伊達四郎([[伊達敏親]]養子。夭逝)
**女子([[大條道頼]]室)
 
== 参考文献 ==
*『亘理町史』上巻(宮城県亘理郡亘理町、1975)
*平成『岩出山町史』通史編・上巻(宮城県大崎市、2009)