「クリスティアン (ブランデンブルク=バイロイト辺境伯)」の版間の差分

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[[image: ChristianvonBrandenburg-Bayreuth01.jpg|right|thumb|upright|クリスティアン]]
[[画像:Christian von Brandenburg-Bayreuth (aka).jpg||thumb|upright|クリスティアン]]
'''クリスティアン・フォン・ブランデンブルク=バイロイト'''('''Christian von Brandenburg-Bayreuth'''、[[1581年]][[1月30日]] [[ケルン・アン・デア・シュプレー]] – [[1655年]][[5月30日]] [[バイロイト]])は、[[フランケン地方]][[バイロイト侯領]]を治めた[[辺境伯]]。[[ブランデンブルク辺境伯|ブランデンブルク選帝侯]][[ヨハン・ゲオルク (ブランデンブルク選帝侯)|ヨハン・ゲオルク]]の5男。[[ヨアヒム・フリードリヒ (ブランデンブルク選帝侯)|ヨアヒム・フリードリヒ]]の弟、[[ヨアヒム・エルンスト (ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯)|ヨアヒム・エルンスト]]の兄
 
== 生涯 ==
クリスティアンは、[[ブランデンブルク選帝侯]][[ヨハン・ゲオルク (ブランデンブルク選帝侯)|ヨハン・ゲオルク]]とその3番目の妻エリーザベト・フォン・アンハルト=ツェルプストとの息子。[[1603年]]に[[ゲオルク・フリードリヒ (ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯)|ゲオルク・フリードリヒ]]が亡くなり、フランケン系[[ホーエンツォレルン家]]の古い家系であるアンスバッハ=イェーゲルンドルフ家が断絶した後、その所領であったブランデンブルク=クルムバッハ辺境伯領を継承した。クリスティアンによって、フランケン系ホーエンツォレルン家の新しい家系であるクルムバッハ=バイロイト家が創設されたのである。
 
クリスティアンが領主権を得ることは、すでに[[1598年]]のゲラーエア家内法で定められ、その用意がなされていた。クリスティアンの領主権継承と同時に、弟の[[ヨアヒム・エルンスト (ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯)|ヨアヒム・エルンスト]]が隣の[[アンスバッハ侯領|ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯領]]を継承した。[[1604年]]にクリスティアンは、その宮廷を[[クルムバッハ]]から[[バイロイト]]に移転した。クルムバッハの高台にあった旧居城の[[プラッセンブルク城]]は防衛施設として残された。この時点から、ブランデンブルク=クルムバッハという[[領邦]]名も、新たな宮廷所在地にちなんでブランデンブルク=バイロイトと呼ばれるようになった(ただし公式には、最後までブランデンブルク=クルムバッハ辺境伯のままであった)。
 
[[1606年]]にクリスティアンは、フランケン[[帝国クライス]]の長官に選出された。
[[image: Urkunde protestantische Union.jpg|thumb|プロテスタント同盟の連判状。右上がクリスティアンの印章]]
彼は、[[プロテスタント同盟]]の創設者の一人であり、[[三十年戦争]]では[[スウェーデン]]軍に味方した。[[神聖ローマ皇帝|皇帝]][[フェルディナント2世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント2世]]は、[[1635年]]にクリスティアンを解任したが、その後も統治は継続された。
 
次男のエルトマン・アウグストに先立たれた為、死後は孫の[[クリスティアン・エルンスト (ブランデンブルク=バイロイト辺境伯)|クリスティアン・エルンスト]]が後を継いだ。
== 子供たち ==
 
クリスティアンは、[[1604年]]に[[プロイセン公]][[アルブレヒト・フリードリヒ (プロイセン公)|アルブレヒト・フリードリヒ]]の娘、マリー・フォン・ホーエンツォレルンと結婚した。
== 子供たち ==
クリスティアンは、[[1604年]]に[[プロシア公領|プロイセン公]][[アルブレヒト・フリードリヒ (プロイセン公)|アルブレヒト・フリードリヒ]]の娘、マリー・フォン・ホーエンツォレルンと結婚した。
* エリーザベト・エレオノーレ(1606年 – 1606年)
* ゲオルク・フリードリヒ(1608年 – 1608年)
* アンナ・マリア(1609年 – 1680年)  - 1639年にヨハン・アントン1世・フォン・エッゲンベルクと結婚
* アグネス・ゾフィー(1611年 – 1611年)
* マクダレーナ・ジビレ(1612年 – 1687年)  - 1638年に[[ザクセン君主一覧|ザクセン選帝侯]][[ヨハン・ゲオルク2世 (ザクセン選帝侯)|ヨハン・ゲオルク2世]]と結婚
* エルトマン・アウグスト(1615年 – 1651年)  - ブランデンブルク=バイロイト辺境伯位継承者だったが、父に先立って死去。
* [[ゲオルク・アルブレヒト・フォン・ブランデンブルク=クルムバッハ|ゲオルク・アルブレヒト]](1619年 – 1666年)  - ブランデンブルク=クルムバッハ辺境伯(傍系、統治はしていない)
 
== 参考文献 ==
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* [http://gso.gbv.de/DB=1.28/REL?PPN=004295528&RELTYPE=TT&COOKIE=U999,K999,D1.28,Ee701f590-17,I0,B9994++++++,SY,A%5C9008+1,,0,H12-23,,30-31,,73-77,,80,,88-90,NGAST,R210.157.254.238,FN ブランデンブルク=バイロイト辺境伯クリスティアンのリンク集] in VD17(17世紀のドイツ語圏の歴史リンク集)
 
{{先代次代|[[バイロイト侯領|ブランデンブルク=<br />バイロイト辺境伯]]|1603 - 1655|[[ゲオルク・フリードリヒ (ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯)|ゲオルク・フリードリヒ]]|[[クリスティアン・エルンスト (ブランデンブルク=バイロイト辺境伯)|クリスティアン・エルンスト]]}}
 
[[Category:ホーエンツォレルン家|くりすていあん1581]]