「ドイツ帝国」の版間の差分

経済を加筆、表はde:Deutsches Kaiserreich(11:55, 8. Mär. 2010)より翻訳。
(政治について加筆、世界歴史大系(山川)を参考に。)
(経済を加筆、表はde:Deutsches Kaiserreich(11:55, 8. Mär. 2010)より翻訳。)
|注記 =
}}
'''ドイツ帝国'''(ドイツていこく、{{Llang|言語記事名=ドイツ語|de|'''Deutsches Kaiserreich'''}})は、[[1871年]][[1月18日]]から[[1918年]][[11月9日]]まで存続した、[[プロイセン王国|プロイセン]]国王をドイツ[[皇帝]]に戴く[[連邦国家]]を指す歴史的名称である。'''帝政ドイツ'''とも言われる。[[普仏戦争]]において、[[パリ]]郊外の[[ヴェルサイユ宮殿]]でプロイセン王[[ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム1世]]の皇帝戴冠式が行われて成立した。[[第一次世界大戦]]の敗北と[[ドイツ革命]]の勃発により、皇帝[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]が[[オランダ]]に亡命して崩壊した
 
== 呼称 ==
'''帝政ドイツ'''とも言われる。
正式な国名は、[[ドイツ革命]]などの国家の変遷による{{Lang|de|Reich}}(ライヒ)の和訳の変化に関らず一貫して「'''[[ドイツ国]]'''」({{Lang|de|''Deutsches Reich''}})である。後の「[[ヴァイマル共和政]]」([[1918年]] - [[1933年]])、「[[ナチス・ドイツ]]」([[1933年]] - [[1945年]])の時代を通じて国名は変わらなかった。そのため、この時代だけを区別する場合は[[皇帝]]を意味する{{Lang|de|Kaiser}}(カイザー)をつけて{{Lang|de|'''Deutsches Kaiserreich'''}}(ドイチェス・カイザーライヒ)と表記されることも多い。
 
== 国家概要 ==
皇帝が元首として絶対的な権力を持ち、現在の[[ドイツ連邦共和国]]の領域の他、[[フランス]]や[[ポーランド]]や[[デンマーク]]の一部、アフリカの[[ナミビア]]他海外植民地を統治していた。
 
ドイツ帝国は、[[普仏戦争]]の勝利により、[[1871年]][[1月18日]]に[[パリ]]郊外の[[ヴェルサイユ宮殿]]の「鏡の間」において行われた[[プロイセン王国|プロイセン]]王[[ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム1世]]のドイツ皇帝戴冠式で成立した。そして、[[第一次世界大戦]]の敗北と[[ドイツ革命]]の勃発による、[[1918年]][[11月9日]]の第3代皇帝[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]の[[オランダ]]亡命によって崩壊した。
 
[[神聖ローマ帝国]]をドイツ「第一帝国」とする場合、この国を「第二帝国」と呼ぶ。この流れから、[[アドルフ・ヒトラー]]の[[ナチス・ドイツ]]は「[[第三帝国]]」と呼ばれている。しかし、これらは正式な呼称とは言えない。
 
正式な国名は、[[ドイツ革命]]などの国家の変遷による{{Lang|de|Reich}}(ライヒ)の和訳の変化に関らず一貫して「'''[[ドイツ国]]'''」({{Lang|de|''Deutsches Reich''}})である。後の「[[ヴァイマル共和政]]」([[1918年]] - [[1933年]])、「[[ナチス・ドイツ]]」([[1933年]] - [[1945年]])の時代を通じて国名は変わらなかった。そのため、この時代だけを区別する場合は[[皇帝]]を意味する{{Lang|de|Kaiser}}(カイザー)をつけて{{Lang|de|'''Deutsches Kaiserreich'''}}(ドイチェス・カイザーライヒ)と表記されることも多い。
 
== 変遷 ==
ドイツ帝国の政治体制は、1871年4月に発布された[[ドイツ帝国憲法]]に規定されている。[[君主制]]のもと、22邦国と3自由市によって構成される[[連邦国家]]と位置づけられた。議会は[[帝国議会]]と[[連邦参議院]]による[[二院制]]である。帝国議会では男子普通選挙により議員が選出されたが、帝国議会の議案・議決は連邦参議院の同意が必ず求められていた。その連邦参議院は各邦国からの代表により構成されているため、[[普通選挙]]といっても外見的な性格が強かった。憲法改正にあたっては、連邦参議院における14票以上の反対が必要だったが、同議会ではプロイセンが17票を有しているため、プロイセンの合意なしに改正を行うことはできない仕組みになっていた。また、ドイツ皇帝の地位はプロイセン王に属するものとされ、そのドイツ皇帝が戦争・議会・[[帝国宰相]]の人事など広範な権力を有していた。そのため、連邦制を採用しつつも、プロイセンの帝国内における主導権は揺るがないものであった。
 
=== ドイツ皇帝一覧構成国 ===
{{ドイツの歴史}}
[[ホーエンツォレルン家]]の3代のドイツ皇帝はプロイセン王を兼ねていた。しかし、初代[[ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム1世]]以外はプロイセン王を名乗ることがほとんどなかった。
* [[ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム1世]](在位:[[1871年]] - [[1888年]]) - 剛直な武断派で、[[自由主義]]者を弾圧して「榴弾王子」と呼ばれたが、即位後はビスマルクを宰相とし、穏健な保守派と協力して「上からの」[[ドイツ統一]]を達成した。しかし、実際にはドイツ統一後の[[プロイセン王国]]の衰退を恐れていたため、ドイツ統一に対してはあまり積極的ではなかった。
* [[フリードリヒ3世 (ドイツ皇帝)|フリードリヒ3世]](在位:[[1888年]]) - 自由主義者で国民には「我らがフリッツ」と呼ばれて親しまれたが、父ヴィルヘルム1世とビスマルクには疎んじられ、政治的影響力を持つことはなかった。在位から僅3ヶ月で死去したため、「百日皇帝」とも綽名される。
* [[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]](在位:[[1888年]] - [[1918年]]) - 「[[カイゼル髭]]」で著名。[[帝国主義]]的な膨張政策を展開したが、拙劣な外交で列強との対立を招き、[[第一次世界大戦]]の引き金を引いた。[[ドイツ革命]]によって廃位。
 
== 構成国 ==
ドイツ帝国は[[プロイセン王国]]を中心とした[[連邦国家]]であった。以下は構成国({{Lang|de|Bundesstaat}})のリストである。このうち、ザクセン=ヴァイマル=アイゼナッハ大公国は、1903年以降、公文書上「ザクセン大公国」({{Lang|de|Großherzogtum Sachsen}})と表記されるようになった。
 
| style="vertical-align:top; text-align:right" | 61
|}
 
===版図===
皇帝が元首として絶対的な権力を持ち、現在の[[ドイツ連邦共和国]]の領域の他、[[フランス]]や[[ポーランド]]や[[デンマーク]]の一部、アフリカの[[ナミビア]]他海外植民地を統治していた。
 
=== 歴代皇帝一覧 ===
{{ドイツの歴史}}
[[ホーエンツォレルン家]]の3代のドイツ皇帝はプロイセン王を兼ねていた。しかし、初代[[ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム1世]]以外はプロイセン王を名乗ることがほとんどなかった。
* [[ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム1世]](在位:[[1871年]] - [[1888年]]) - 剛直な武断派で、[[自由主義]]者を弾圧して「榴弾王子」と呼ばれたが、即位後はビスマルクを宰相とし、穏健な保守派と協力して「上からの」[[ドイツ統一]]を達成した。しかし、実際にはドイツ統一後の[[プロイセン王国]]の衰退を恐れていたため、ドイツ統一に対してはあまり積極的ではなかった。
* [[フリードリヒ3世 (ドイツ皇帝)|フリードリヒ3世]](在位:[[1888年]]) - 自由主義者で国民には「我らがフリッツ」と呼ばれて親しまれたが、父ヴィルヘルム1世とビスマルクには疎んじられ、政治的影響力を持つことはなかった。在位から僅3ヶ月で死去したため、「百日皇帝」とも綽名される。
* [[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]](在位:[[1888年]] - [[1918年]]) - 「[[カイゼル髭]]」で著名。[[帝国主義]]的な膨張政策を展開したが、拙劣な外交で列強との対立を招き、[[第一次世界大戦]]の引き金を引いた。[[ドイツ革命]]によって廃位。
 
==経済==
帝国の成立後、関税・通商・通貨・度量衡・郵便制度などの統一が進められた。[[金本位制]]を採用し、中央銀行も設立された。統一当初は農業国としての性格が強かったが、徐々に工業国となっていった。こうした経済構造の変化は、以下の表にみられるように各部門における労働人口の変化からもうかがうことができる。
 
{| class="wikitable float-right sortable"
|+ 産業部門別就業人口 <ref>Gerd Hohorst, Jürgen Kocka, Gerhard A. Ritter: ''Sozialgeschichtliches Arbeitsbuch Bd. 2: Materialien zur Statistik des Kaiserreichs 1870–1914''. München 1978, S. 66.</ref>
|- class="hintergrundfarbe6"
! 産業部門 || 1882 || 1895 || 1907
|-
|農林漁業
|align=right | 41,6
|align=right | 35,0
|align=right | 28,4
|-
|鉱工業
|align=right | 34,8
|align=right | 38,5
|align=right | 42,2
|-
|商業・運輸
|align=right | 9,4
|align=right | 11,0
|align=right | 12,9
|-
|家事サーヴィス
|align=right | 5,0
|align=right | 4,3
|align=right | 3,3
|-
|公務・自由業
|align=right | 4,6
|align=right | 5,1
|align=right | 5,2
|-
|無職および年金・利子生活者
|align=right | 4,7
|align=right | 6,1
|align=right | 8,1
|}
 
帝国成立直後の1871年から1873年までは、19世紀半ばからの経済成長に普仏戦争による賠償金も加わり、会社設立のブームが起こった。しかし、1873年に[[ウィーン証券取引所]]の大混乱などを受けて「大不況」に突入し、多くの新設会社が倒産した。一時の好況はあったものの1895年頃までは経済的停滞が続いた。19世紀末ころには石炭・鋼鉄・ガラスなどの業界でカルテルが結成され、企業の独占が進んだ。金融面でも独占が進み、その頭文字から「4D」と称される[[ドイツ銀行]]、[[ディスコント・ゲゼルシャフト]]、[[ドレスデン銀行]]、[[ダルムシュタット銀行]]が預金高の40%以上をおさえており、独占企業との結びつきを強めていった。
 
== 関連項目 ==
* [[ホーエンツォレルン城]]
* [[第三帝国]]
 
==脚注==
<references/>
 
{{ドイツ帝国の構成国}}
3,064

回編集