「相馬事件」の版間の差分

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==経緯==
旧[[相馬中村藩|中村藩]]主、[[相馬誠胤]](そうまともたね)の[[統合失調症]]([[推定]])の[[症状]]が悪化したため、[[1879年]]に家族が[[宮内省]]に自宅[[監禁]]を申し入れ、以後自宅で[[監禁]]、後に[[癲狂]]院(現在の[[精神科|精神病院]]に相当)へ入院。
 
[[1883年]]、旧藩士の[[錦織剛清]](にしごりたけきよ)が[[主君]]の[[病状]]に疑いを持ち、家族による不当監禁であるとして家令・志賀直道([[志賀直哉]]の祖父)ら関係者を[[告発]]したことから事件が表面化した。[[告発]]を行った錦織に対し、世間からは[[忠義]]者として[[同情]]が集まった。当時は精神病の[[診断]]も未熟であり、高名な大学教授等による精神病の診断がまちまちの結果となった。正常との判断を下す医師もおり、混乱の度合いが増すこととなった。
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==法制度への影響==
相馬事件がきっかけとなり、精神病者の監護(監禁および保護)の手続きについて[[問題意識]]が高まり、[[1900年]]に[[精神病者監護法]]が制定された。これは精神病者の[[人権]]保護や[[治療]]を目的とするものではなく、精神病院(精神病室)および私宅(神社仏閣における参籠所や公私立の精神病者収容施設なども「私宅」のカテゴリーに含まれる場合もあった)における監置を法によって規定するといった[[隔離]]を主眼にするものであった。
 
==関連項目==