「比叡山焼き討ち (1571年)」の版間の差分

(interwiki)
}}
このため後世の比叡山側への同情は薄く、[[小瀬甫庵]]も『[[太閤記]]』で「山門を亡ぼす者は山門なり」と批判している。[[儒学者]]である[[新井白石]]が『[[読史余論]]』で「その事は残忍なりといえども、永く叡僧(比叡山の僧)の兇悪を除けり、是亦天下に功有事の一つ成べし」として以降、比叡山焼き討ちは肯定的に評価されてきた。
 
ただし、多門院日記の著者が所属している興福寺は歴史的に比叡山とは長い対立関係にあったこと、信長公記や甫庵太閤記の元となる多くの資料の著者である太田牛一が信長の家臣であったことにも留意すべきであろう。武田信玄を初めとする信長の焼討に対する同時代の批判者が多数存在していたことは事実である。
 
現代の歴史家でも信長による古代的権威の克服・宗教的束縛からの解放を目的とした合理的な行動として肯定的に評価する説もあるが<ref>「現代の歴史家もまた、古代的権威の克服、宗教的束縛からの解放としてこの行為を高く評価するのに至ったのである」[[林屋辰三郎]] 『天下一統』</ref>、[[林屋辰三郎]]のように[[武田信玄]]が比叡山復興を旗印にしたことによる不利と、比叡山勢力を[[石山本願寺]]対策に利用することもできたという指摘をし、戦略的に満点とはいえないとする論者<ref name="hayashiya"/>もいる。
 
ただし以上のように肯定的な評価をする一方で、多門院日記の著者が所属している興福寺は歴史的に比叡山とは長い対立関係にあったこと、信長公記や甫庵太閤記の元となる多くの資料の著者である太田牛一が信長の家臣であったことにも留意すべきであろう。武田信玄また、後世の肯定的評価初めとする信長の焼討に対する同時歴史家も現代の批判者政教分離思想や、自身の政治的立場という要素が多数存在し分に含まれていことは事実にも注意が必要である。
 
同時代の人間として、山科言継は『言継卿日記』において「仏法破滅」「王法いかがあるべきことか」と不安と動揺を吐露し、天皇家でも『御湯殿上日記』において
{{quotation|
ちか比(ごろ)ことのはもなき事にて、天下のため笑止なること、筆にもつくしかたき事なり|
}}
と批判的に評している。先述のように武田信玄が焼討ちを非難して比叡山復興の旗印にするといったことからも、同時代の多くの人間から批判された。
また、『信長公記』でも焼討ちの理由は比叡山が浅井、朝倉方についたのでその憤りを散ぜんがためと記しており、「年来の御胸朦(わだかまり)を散ぜられおわんぬ」としている。すなわち焼討ちは敵対したものに対する攻撃であったというのが本質である<ref>池上裕子『日本の歴史15-織豊政権と江戸幕府』講談社2002年、41頁</ref>。信長公記の記す「天道のおそれをも顧みず、淫乱、魚鳥を食し」云々の下りは大義名分であり、討伐するための論理である<ref>神田千里『一向一揆と石山合戦』吉川弘文館2007年</ref>。
 
天下に君臨し、時には[[天皇]]もしのぐ権力を振りかざし傍若無人の振る舞い、[[仏法]]を説く事を忘れた、うつつを抜かす[[教団]]に織田信長が天に代わって鉄鎚を下す<ref>「京都・近江戦国時代をゆく」36頁</ref>、という側面もあったのではないかと考えられている。{{-}}
96

回編集