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== 略歴 ==
幕末の幕臣・外交官、[[川路聖謨]]の曾孫。祖父は[[川路彰常]](あきつね)。父は[[川路太郎]]([[1844年]] - [[1927年]])。
 
幼少期は[[福山市]]や淡路洲本で過ごした。[[兵庫県立洲本高等学校|洲本中学]]時代から文学に関心をもち『中学世界』などに投稿を始めた。
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1910年、処女詩集『路傍の花』を出した。口語[[自由詩]]を収録した最初の詩集としてその意義は大きく、七五調などの古い詩型を破り言文一致による新しい詩を創造したことで、詩における自然主義的革命が実現したといわれている。
 
1913年、東京美術学校日本画科卒業。その後 [[三木露風]]を中心とする詩誌『未来』の同人として活躍。1914年の第二詩集『かなたの空』には象徴詩の技法がみえる
1914年の第二詩集『かなたの空』には象徴詩の技法がみえる。
 
新進詩人として1918年『勝利』、1921年『曙の声』などの詩集を出した。曙光詩社を創立。評論やフランス詩壇の紹介の仕事も進めた。1922年、詩集『歩む人』以後は抒情性を脱し、知性派主知的詩人としての特色を強めた
 
1927年外遊、[[パリ大学]]で東洋美術史を学び、[[美術評論家]]としても知られ『現代美術の鑑賞』(1925年)、『[[アンリ・マティス|マチス]]以後』(1930年)などの美術評論の著書もある。評論でも『詩学』など著書も多い。
評論やフランス詩壇の紹介の仕事も進めた。
1922年、詩集『歩む人』以後は抒情性を脱し、知性派主知的詩人としての特色を強めた。
1927年外遊、[[パリ大学]]で東洋美術史を学び、[[美術評論家]]としても知られ『現代美術の鑑賞』(1925年)、『[[マチス]]以後』(1930年)などの美術評論の著書もある。評論でも『詩学』など著書も多い。
 
1958年、『波』などにより[[芸術院賞]]受賞。70歳で逝去。没後に遺稿詩集として『石』が上梓された。墓地は[[多磨霊園]]10区
墓地は[[多磨霊園]]10区。
 
== 参照 ==
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*『日本現代詩人辞典』
*『日本人名大辞典』
 
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