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島中雄三(しまなか ゆうぞう)
大正、昭和期の社会運動家・評論家・翻訳家。1881年2月18日、父雄碩、母棹枝の3男として奈良県桜井市に生まれる。5歳年下の弟に中央公論編集長、のち社長になった[[嶋中雄作]]がいる。畝傍中学卒後、東京法学院(現中央大学)に学ぶが中退。福島四郎の「婦女新聞」の記者(編集、公正助手)となる。この時代に、編集部にいた3歳年上の[[下中弥三郎]]と知り合い、以後無二の親友となる。1906年、雑誌「ヒラメキ」を発刊、主筆兼編集人に。「婦女新聞」時代に「翠湖」の筆名で随想、評論を書き始め「サンデー」「新公論」などでは1919年、下中に協力が創設した。1919年教員組合啓明会の世話人になり自らも[[安部磯雄]]らと文化学会を作り旗揚げし、労働組合同盟会を結成した。1920年12月日本労働組合、学生団体、さまざまな思想的立場にある社会主義同盟に参加者が団結た。て「日本社会主義同盟の創立」を結成した際、荒畑寒村、会では杉栄堺利彦、山川均らとともに発起人として検束され参加した。1923年、[[青野季吉]]、[[鈴木茂三郎]]らと「政治問題研究会」(のち政治研究会)の創立に加わり、主導的役割を果たす。1924年、安部磯雄、[[秋田雨雀]]、下中弥三郎、[[菊池寛]]らと「日本フェビアン協会」を設立。1926年、社会民衆党結成に加わり、中央執行委員に選出される。安部は委員長には安部書記長には[[片山哲]]は書記長に選ばれた。1929年、東京市会議員選挙に2区(小石川区)から出馬、市制の刷新を訴え全市で最高得票を得て当選した。1931年、党満蒙問題調査委員として満州(中国東北部)へ渡り、同年下中、[[赤松克麿]]らと、国家社会主義運動懇談会に参加運動の決裂後、下中らと新日本国民同盟を結成。この間、丸山鶴吉の東京市制革新同盟常任幹事となり、市制刷新運動を展開した。1937年、東京市会議員選挙に出馬するものの、自ら結成した市制革新同盟の支援を得られず、落選の憂き目を見た。それ以降は翻訳や評論活動に専念し、文化学会やフェビアン協会に加わった童話作家[[小川未明]]の作品出版に奔走、1925年『小川未明選集全6巻』の刊行にこぎつけた。1940年9月16日、59歳で死去。