「松林図屏風」の版間の差分

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'''松林図屏風'''(しょうりんずびょうぶ)は、[[安土桃山時代]]の絵師・[[長谷川等伯]]の代表作で、紙本墨画、六曲一双の屏風画である。[[美術史]]上日本の水墨画を自立させたと称される、[[近世]]日本[[水墨画]]の代表作の1つ。[[国宝]]。[[東京国立博物館]]蔵。
 
== 概要 ==
本作品には年記がなく制作年代は未詳であるが、[[文禄]]3,42~4(1594,5(1593~5年)頃、長谷川等伯50歳代の作と推定されている。文禄2年([[15931592年]])等伯が祥雲寺障壁画(現・[[智積院]]襖絵)を完成させた翌年、息子の久蔵が26歳の若さで亡くなっており、その悲しみを背負った等伯が、人からの依頼ではなく自分自身のために描いたとも言われる。
 
樹木の描き方には、等伯が私叙した[[牧谿]]の影響が見られるが、もはや模倣の域ではなく完全に自己の画風に取り込んでいる。粗放で力強い松を書くのに、等伯は藁筆を用いたとも言われる。また、[[室町時代]]の[[大和絵]]でしばしば描かれた『浜松図』(東京国立博物館、他蔵)や伝[[能阿弥]]筆の『三保松原図』([[頴川美術館]]蔵)の影響も指摘される。いずれにしても、大和絵の伝統のモチーフである松林のみを、中国から伝わった水墨画で描く点に、等伯の清新さが認められる。等伯の生まれ育った[[能登]]の海浜には、今もこの絵のような松林が広がっており、彼の脳裏に残った故郷の風景と牧谿らの技法や伝統と結びついて、このような日本的な情感豊かな水墨画が誕生したとも想像されている。
 
『等伯画説』第70条に、堺の宗恵<ref>水落宗恵。宗恵の子[[千紹二|紹二]]は[[千利休]]の三女の婿</ref>が[[梁楷]]の柳の絵を見て呟いた「静かなる絵<ref>[[室町時代]]の『[[君台観左右帳記]]』が宝物を等級分けしていたのに対し、桃山時代になると[[茶の湯]]の世界で美術品について、媚びぬ絵、ひややかなる絵、さわがしき絵、ぬるき壷、といった評語が現れ鑑賞の深まりを見せる。なお『[[天王寺屋茶会記]]』には、[[徽宗]]の鴨の絵を「しずかなる絵」と評した語がある</ref>」という言葉に等伯は共感して、自分の理想の絵画を「静かなる絵」と考えた話を記す。等伯が考えた「静かなる絵」は、「[[瀟湘八景]]」中の「瀟湘夜雨」「煙寺晩鐘」のような、雪、夜、雨、月、煙 (霧)が描かれた物で、遠くの雪山をのぞみ朝霧の立ち込めた松林を描く「松林図」は、まさに等伯が求める絵の具現化と考えて良いだろう。
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== 松林図をめぐる諸説 ==
右隻の右2扇分と左4扇分との間、左隻の右3扇分と左3扇分との間に紙継ぎのずれが見える点、通常の屏風絵には用いられない、きめの荒い料紙を用いている点などから、元々はもっと大きな絵で、完成作でなく下絵として描かれていた可能性が指摘されている。確かに完成作では考えられないような、墨が無造作に撥ねた痕跡が画中のあちこちにあり、枝先や根元には紙を立てて描いたためであろう墨溜りがある。その反面、下絵では普通使わない最高級の墨が使われている事も指摘されている。
 
継ぎ目を元の状態に戻すと、左隻の右1扇目上部の山から緩やかな[[三角形]]の構図にまとまり、丁度、対辺延長上の両端に[[落款]]が押されている。ただし、この落款は基準印と異なる事から後に押されたと考えられ、更に左隻下の地面を表す薄墨が大きくずれ、現状の作品がもつリズム感が失われる。これを説明するため、元々この間に現在は失われた一、二扇があったとする案や、元は屏風の左右が逆で、左隻左端中程にわずかに覗く枝の先端部が右隻右端の松の延長部分とする仮説などが提出されている。また、元々は屏風絵ではなく襖絵だったとする説もある。しかし、実際に屏風を立てて観察すると、屏風が奥に折り曲げられている所では樹木は奥に向かい、手前で折られている部分では、松樹は濃墨で描かれ、奥になるほど淡墨になる、といった屏風絵として鑑賞されることを想定しなければ不可能な工夫も凝らされている。