「南都焼討」の版間の差分
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大衆の行動は興福寺の平氏に対する敵意の大きさを物語る出来事だが、結果的に興福寺攻撃に対する公卿たちの反対を封じ込め、興福寺への大軍派遣の大義名分を与える事になった。清盛は[[12月25日 (旧暦)|12月25日]]には息子の重衡を総大将、甥の[[平通盛]]らを副将として4万の兵を向かわせた。これに対して南都大衆も[[般若寺]]と[[奈良坂]]に[[堀]]を築き、兵7千で固めたのである。これに対して[[12月27日 (旧暦)|27日]]に重衡らも兵を2手に分けて[[木津町|木津]]方面より侵攻したが、大衆も[[木津川 (京都府)|木津川]]沿岸や奈良坂・般若寺などで抵抗を続けたため、全体的に平氏軍有利ながらも決着が付かなかった。28日に入ると、平氏軍は奈良坂と般若寺を占拠して本陣を般若寺内に本陣を移した。『平家物語』によると、その夜、重衡が陣中にて灯りを求めたところ、配下が火攻めの命令と勘違いして周囲の民家に火を放った。それが折からの強風に煽られて大火災を招いたとする。しかし僧坊等を焼き払うのは当初からの計画であった。また『延慶本平家物語』では計画的放火であった事を示唆しており、放火は合戦の際の基本的な戦術として行われたものと思われる。ただ興福寺・大仏殿までも焼き払うような大規模な延焼は、重衡たちの予想を上回るものであったと考えられる。
これによって奈良の主要部を巻き込む大火災が発生
== 戦後 ==
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