「生島新五郎」の版間の差分

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[[正徳 (日本)|正徳]]4年 ([[1714年]]) 、大奥御年寄の絵島が寺へ参詣した帰途、新五郎の舞台を観覧し、その後宴会を開いた事で大奥の門限に遅れ、大きな問題となった。このことから絵島との密会が疑われ[[評定所]]が審理した結果、新五郎に[[三宅島]]へ遠島(流罪)の裁決が下る。また山村座の座元も[[伊豆大島]]への遠島となって、山村座は廃座となった。
 
寛保2年 ([[1742年]]) 2月、[[徳川吉宗]]により赦免され江戸に戻ったが、翌年小網町にて73歳で没する。戒名は道栄信士。墓所は三宅島にある(この生島の物故については先述の説のほか、享保18年に三宅島で死去したという説もある)。
 
この事件を題材にした川柳に「やつさずに濡れ事をする新五郎」がある。「やつす」とは「化粧をする」という意味。