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{{Rwandan Genocide}}
[[ファイル:Rwanda genocide wanted poster 2-20-03.jpg|250px|thumb|ルワンダ虐殺に加担した容疑者リスト(アメリカ合衆国が作成)]]
'''ルワンダ虐殺'''(Rwandan Genocide)とは、1994年に[[ルワンダ]]で発生した[[ジェノサイド]]である。ルワンダ虐殺では、フツ系の政府とそれに同調するフツ過激派により、数十万人の[[ツチ]]と穏健派[[フツ]]が[[フツ・パワー]]のイデオロギーの下、1994月6日に発生した[[ハビャリマナ大統領とンタリャミラ大統領の暗殺|ジュベナール・ハビャリマナ大統領の暗殺]]から[[ルワンダ愛国戦線]](RPF)が同国を制圧するまでの約100日の期間に、少なくとも50万人が殺害された<ref name=A>{{cite book|last=Des Forges|first=Alison|title=Leave None to Tell the Story: Genocide in Rwanda|publisher=Human Rights Watch|year=1999|location=|pages=|url=http://www.hrw.org/reports/1999/rwanda|isbn=1-56432-171-1|accessdate=2010-03-15}}</ref>。なお、犠牲者の正確な数は未だ明らかとなっていないが、およそ50万人から100万人の間<ref>See, e.g., [http://news.bbc.co.uk/1/hi/world/africa/1288230.stm Rwanda: How the genocide happened], [[BBC]], April 1, 2004, which gives an estimate of 800,000, and [http://www.un.org/ecosocdev/geninfo/afrec/subjindx/121rwan.htm OAU sets inquiry into Rwanda genocide], Africa Recovery, Vol. 12 1#1 (August 1998), page 4, which estimates the number at between 500,000 and 1,000,000. 7 out of every 10 Tutsis were killed.</ref>、すなわちルワンダ全国民の10%から20%の間であると推測されている。
'''ルワンダ虐殺'''(ルワンダぎゃくさつ)は、[[1994年]]に[[ルワンダ]]で発生した[[大量虐殺]]である。
 
このルワンダ虐殺は、1990年にルワンダ政府反乱組織であるルワンダ愛国戦線が[[ウガンダ]]からルワンダ北部地域に侵攻したことで勃発した[[ルワンダ紛争]]の末期に発生した。ルワンダ内戦は、フツ系政権および同政権を支援する[[フランス語圏アフリカ]]、フランス本国<ref>Wallis, Andrew. ''Silent accomplice''. 2006, page 38-41</ref><ref>Walter, Barbara F. and Snyder, Jack L. ''Civil Wars, Insecurity, and Intervention''. 1999, page 135</ref>と、主にツチ族難民から構成されるルワンダ愛国戦線および同組織を支援するウガンダ政府との争いであったという歴史的経緯から、ルワンダ国内ではツチ-フツ両民族間の緊張が大きく高まるとともにフツ・パワーが増大し、「国内外のツチはかつてのようにフツを奴隷とする気なのだ。我々はこれに対し手段を問わず抵抗しなければならない。」というイデオロギーがフツ過激派側から主張されるようになっていった。1993年8月には、ルワンダ大統領のジュベナール・ハビャリマナにより停戦命令が下され、ルワンダ愛国戦線との間に[[アルーシャ協定]]が成立したにも関わらず、その後もルワンダ愛国戦線の侵攻による北部地域におけるフツの大量移住や、南部地域のツチに対する断続的な虐殺行為などを含む民族間の紛争が続けられた。
== 概要 ==
 
=== 内戦 ===
1994年4月に生じたハビャリマナの暗殺は、過激派フツによるツチと穏健派フツへの大量虐殺の引き金となった。この虐殺は、フツ過激派政党と関連のあるフツ系民兵組織、すなわち[[インテラハムウェ]]と[[インプザムガンビ]]が主体となって行ったことが知られている。また、虐殺行為の主導を行ったのは、[[アカズ]]と呼ばれるフツ・パワーの中枢組織であった。このルワンダ政権側主導の大量虐殺行為によりアルーシャ協定の停戦協定は破棄され、ツチ系のルワンダ愛国戦線と旧ルワンダ軍による内戦と、ジェノサイド行為が同時進行していくこととなった。最終的には、ルワンダ愛国戦線が旧ルワンダ軍を撃破してルワンダを制圧することで、ルワンダ虐殺はルワンダ紛争とともに終結した。
 
== 1994年4月6日までの歴史的背景 ==
ルワンダ虐殺は部族対立の観点のみから語られることがしばしばあるが、これは適当であるとは言い難い。ルワンダ虐殺の直接の引き金となったのは、1994年4月6日の[[ハビャリマナ大統領とンタリャミラ大統領の暗殺|ジュベナール・ハビャリマナ大統領の暗殺]]であるが、ここに至るまでには多岐に渡る要因があった。まず、フツとツチという両民族に関しても、この2つの民族はもともと同一の由来を持ち、その境界が甚だ曖昧であったものを、ベルギー植民地時代に完全に完全に異なった民族として隔てられたことが明らかとなっている<ref>松村高夫(著)、矢野久(著)『大量虐殺の社会史―戦慄の20世紀 (MINERVA西洋史ライブラリー) 』、ミネルヴァ書房、2007年12月、pp.232-236。</ref>。また、民族の対立要因に関しても、歴史的要因のほかに1980年代後半の経済状況悪化を受けた若者の失業率増加、人口の増加による土地をめぐっての対立、食料の不足などのほか、90年代初頭のルワンダ愛国戦線侵攻を受けたハビャリマナ政権によるツチ敵視の政策、ルワンダ愛国戦線に大きく譲歩した形となった93年の[[アルーシャ協定]]成立により自身らの地位に危機感を抱いたフツ過激派の存在、一般人の識字率の低さに由来する権力への盲追的傾向などが挙げられる<ref>松村高夫(著)、矢野久(著)『大量虐殺の社会史―戦慄の20世紀 (MINERVA西洋史ライブラリー) 』、ミネルヴァ書房、2007年12月、pp.237-242。</ref><ref>松村高夫(著)、矢野久(著)『大量虐殺の社会史―戦慄の20世紀 (MINERVA西洋史ライブラリー) 』、ミネルヴァ書房、2007年12月、pp.255-256。</ref>。さらに、国連や世界各国の消極的な態度や状況分析の失敗<ref>松村高夫(著)、矢野久(著)『大量虐殺の社会史―戦慄の20世紀 (MINERVA西洋史ライブラリー) 』、ミネルヴァ書房、2007年12月、pp.256-262。</ref>、ルワンダ宗教界による虐殺への関与<ref>松村高夫(著)、矢野久(著)『大量虐殺の社会史―戦慄の20世紀 (MINERVA西洋史ライブラリー) 』、ミネルヴァ書房、2007年12月、pp.252。</ref>があったことが知られている。以下にこれらの各要因について説明する。
 
[[File:ST-Speke.jpg|thumb|right|200px|大湖地域における[[ハム仮説]]の提唱者、[[ジョン・ハニング・スピーク]]。]]
=== ツチとフツの確立と対立 ===
{{main|ツチ族とフツ族の起源}}
{{see|ルワンダの歴史}}
かつて、ヨーロッパ人の間では、ルワンダやブルンジなどのアフリカ大湖沼周辺地域の国々はフツ、ツチ、トゥワの3民族から主に構成されると考えるのが主流であった。この3民族のうち、この地域に最も古くから住んでいたのは、およそ紀元前3000年から2000年頃に狩猟民族の[[トゥワ]]ことであったことが知られている<ref>Jackson Nyamuya Maogoto『The International Criminal Tribunal for Rwanda: A Distorting Mirror; Casting doubt on its actor-oriented approach in addressing the Rwandan genocide』, '' African Journal on Conflict Resolution'', 2003. [http://se1.isn.ch/serviceengine/Files/ISN/98087/ichaptersection_singledocument/CEC67BB4-3CAD-419F-85D3-D513318F8E6E/en/Chapter4.pdf]</ref>。その後、農耕民であるフツが10世紀以前にルワンダ周辺地域に住み着き、さらに10世紀から13世紀の間に北方から牧畜民族のツチがこの地域に来て両民族を支配し、[[ルワンダ王国]]下で国を治めていたと考えられていた<ref>武内進一『現代アフリカの紛争と国家 ポストコロニアル家産制国家とルワンダ・ジェノサイド』、pp.84-87、明石書店、2009年2月。</ref>。
 
この学説の背景となったものの1つに、19世紀後半のヨーロッパにおける主流の人種思想、[[ハム仮説]]([[:en:Hamitic]])があった。ハム仮説とは、旧約聖書の創世記第9章において、ノアの裸体をハムが覗き見た罪により、ハムの息子のカナンが「カナンはのろわれよ。彼はしもべのしもべとなって、その兄弟たちに仕える。」<ref>[http://bible.e-lesson1.com/2genesis9.htm 創世記 第9章]</ref>とモーゼの呪いを受け、そのカナンの末裔で黒人の優越種族であるハム系民族が、未開の地であるアフリカに文明をもたらしたとする理論仮説であった<ref>武内進一『現代アフリカの紛争と国家 ポストコロニアル家産制国家とルワンダ・ジェノサイド』、明石書店、2009年2月、p.85。</ref>。ルワンダおいて、[[ネグロイド]]に区分される[[バンドゥー系民族]]に特徴的な、中程度の背丈とずんぐりした体系を持つ農耕民族のフツを、[[コーカソイド]]人種に区分されるハム系諸民族に特徴的な、痩せ型で鼻の高く長身な牧畜民族のツチが支配する状況は、このハム仮説に適合するものであった<ref>武内進一『現代アフリカの紛争と国家 ポストコロニアル家産制国家とルワンダ・ジェノサイド』、明石書店、2009年2月、p.87。</ref>。そのため、19世紀後半にこの地を訪れた[[ジョン・ハニング・スピーク]]は、1864年に刊行した『ナイル川源流探検記』においてハム仮説を大湖地域に適用し、説明した。しかし近年では、実際にはフツとツチは宗教、言語、文化に差異が無く、また互いの民族間で婚姻がなされていたこと、19世紀まで両民族間の区分は甚だ曖昧なものであったこと、さらにはツチがフツよりも後から移住してきたという言語学的・考古学的証拠が無いことから、この民族はもともと同一のものであったのが、次第に牧畜民と農耕民へ分化したのではないかと考えられている<ref>饗場和彦「ルワンダにおける1994年のジェノサイド」『徳島大学社会科学研究』第19号 2006年1月 pp38-39</ref><ref>武内 進一 (編集) 『現代アフリカの紛争 —歴史と主体— 』、日本貿易振興会アジア経済研究所、2000年1月、pp.247-292。</ref>。
 
[[ファイル:League of Nations mandate Middle East and Africa.png|thumb|200px|left|10が[[ルアンダ・ウルンディ]]の場所である。]]
19世紀末にヨーロッパ諸国によりアフリカが分割され、この地域が1899年にドイツ帝国領[[ルアンダ・ウルンディ]]となると、ドイツはハム仮説に従いツチによるルワンダ王国の統治システムを用いて間接統治を行い、周辺地域の国々を平定して中央集権化していった<ref>武内進一『現代アフリカの紛争と国家 ポストコロニアル家産制国家とルワンダ・ジェノサイド』、明石書店、2009年2月、pp.108-111。</ref>。その後の1919年、[[第一次世界大戦]]でドイツが敗れたことで、アフリカ各地にあったドイツ領は新たな宗主国へ割り振られ、ルアンダ・ウルンディは[[ベルギー]]領となった。ベルギーはこの国の統治機構を植民地経営主義的観点から積極的に変更し、王権を形骸化させ<ref>武内進一『現代アフリカの紛争と国家 ポストコロニアル家産制国家とルワンダ・ジェノサイド』、明石書店、2009年2月、p.118。</ref>、伝統的な行政機構を廃止してほぼ全ての首長をツチに独占させたほか<ref>武内進一『現代アフリカの紛争と国家 ポストコロニアル家産制国家とルワンダ・ジェノサイド』、明石書店、2009年2月、pp.117-119。</ref>、税や労役面で間接的にツチへの優遇を行った<ref>武内進一『現代アフリカの紛争と国家 ポストコロニアル家産制国家とルワンダ・ジェノサイド』、明石書店、2009年2月、pp.153-156。</ref>。また、教育面でもツチへの優遇を行い、公立学校へが許されるのはほぼ完全にツチに限られていたほか、カトリック教会の運営する学校でもツチが優遇され、行政管理技術やフランス語の教育もツチに対してのみ行われた<ref>武内進一『現代アフリカの紛争と国家 ポストコロニアル家産制国家とルワンダ・ジェノサイド』、明石書店、2009年2月、pp.126-127。</ref>。さらに1930年代には人種カード制を導入し、ツチとフツの民族を完全に隔てたものとして固定し<ref>饗場和彦「ルワンダにおける1994年のジェノサイド」『徳島大学社会科学研究』第19号 2006年1月 p40</ref>、民族の区分による統治システムを完成させることで、後のルワンダ虐殺の要因となる二つの民族を確立したのであった。
 
[[File:Rw-map.png|thumb|right|200px|1962年独立以降のルワンダの地図。]]
第二次大戦後、アフリカの独立機運が高まってくると、ルアンダ・ウルンディでも盛んに独立運動が行われるようになった。宗主国であったベルギーは国際的な流れを受けて多数派のフツを支持するようになり、ベルギー統治時代の初期にはハム仮説を最も強固に支持していたカトリック教会<ref>武内進一『現代アフリカの紛争と国家 ポストコロニアル家産制国家とルワンダ・ジェノサイド』、明石書店、2009年2月、p.126。</ref>もまた、公式にフツの支持を表明した<ref>饗場和彦「ルワンダにおける1994年のジェノサイド」『徳島大学社会科学研究』第19号 2006年1月 pp40-41</ref>。これらの後押しもあり、後にルワンダ大統領となる[[グレゴワール・カイバンダ]]やジュベナール・ハビャリマナらを含む9人のフツが、ツチによる政治政治の独占的状態を批判した[[バフツ宣言]]と呼ばれるマニュフェストを1957年に発表し、その2年後の1959年には、バフツ宣言を行ったメンバーが中心となって[[パルメフツ]]が結成された。
 
そんな中、1959年の11月1日の万聖節の日にパルメフツの指導者の1人であった[[ドミニク・ンボニュムトゥワ]]([[:en:Dominique Mbonyumutwa]])がツチの若者に襲撃された。その後、ンボニュムトゥワが殺害されたとの誤報が流れ、これに激怒したフツがツチの指導者を殺害し、ツチの家に対する放火が全国的に行われた。そしてツチ側も報復としてフツ指導者を殺害する……という形で国内に動乱が広がっていった<ref>武内進一『現代アフリカの紛争を理解するために』、ジェトロ・アジア経済研究所、1998年3月、p276。[http://www.ide.go.jp/Japanese/Publish/Download/Report/pdf/report_1.pdf]</ref>。この際、ベルギーの弁務官であったロジスト大佐はフツのために行動することを表明し、フツを利するために行動したことが知られている<ref>武内進一『現代アフリカの紛争と国家 ポストコロニアル家産制国家とルワンダ・ジェノサイド』、明石書店、2009年2月、pp.174-175。</ref>。
 
1961年にはルワンダ国王であった[[キゲリ5世]]の退位と王制の廃止が決定され、同年10月にカイバンダが共和国大統領となった。このフツ系のカイバンダ政権はツチを迫害し、多くのツチが周辺国への難民化を余儀なくされた。1973年、無血クーデターが発生してハビャリマナが政権を握ると、ツチに対する迫害行為の状況は幾分か改善したものの、周辺国へ逃れた難民の問題や、クウォーター制によるツチの社会進出制限の問題は依然として残ったままであった。1980年代には、ルワンダ国外で難民として暮らすツチは60万人に達していたことが知られている<ref name>饗場和彦「ルワンダにおける1994年のジェノサイド」『徳島大学社会科学研究』第19号 2006年1月 p48</ref>。
 
隣国である[[ブルンジ]]もまた、ルアンダ・ウルンディとしてルワンダとまとめて扱われていたため、同様のフツとツチ間の問題が生じることとなった。1962年の独立以降、[[ブルンジ虐殺]]と呼ばれる2つの虐殺事件が発生しており、一方は1972年のツチ兵士によるフツの大量虐殺事件で<ref>Staff. [http://www.preventgenocide.org/edu/pastgenocides/burundi/resources/ pastgenocides, Burundi resources] on the website of Prevent Genocide International lists the following resources:
*Michael Bowen, ''Passing by;: The United States and genocide in Burundi'', 1972, (Carnegie Endowment for International Peace, 1973), 49 pp.
*René Lemarchand, ''Selective genocide in Burundi'' (Report - Minority Rights Group ; no. 20, 1974), 36 pp.
*Rene Lemarchand, ''Burundi: Ethnic Conflict and Genocide'' (New York: Woodrow Wilson Center and Cambridge University Press, 1996), 232 pp.
*Edward L. Nyankanzi, ''Genocide: Rwanda and Burundi'' (Schenkman Books, 1998), 198 pp.
*Christian P. Scherrer, ''Genocide and crisis in Central Africa : conflict roots, mass violence, and regional war''; foreword by Robert Melson. Westport, Conn. : Praeger, 2002.
*Weissman, Stephen R. "[http://www.usip.org/pubs/peaceworks/pwks22.html Preventing Genocide in Burundi Lessons from International Diplomacy][http://web.archive.org/web/20080523172610/http://www.usip.org/pubs/peaceworks/pwks22.html Webarchive log][http://web.archive.org/web/20070312235311/http://iafrica.com/news/worldnews/314365.htm Webarchive log]", United States Institute of Peace</ref>、もう一方は1993年のフツによるツチの虐殺事件である<ref name>Totten, [http://books.google.co.uk/books?id=5Ef8Hrx8Cd0C&pg=PA346&lpg=PT347#PPA403,M1 p. 331]</ref>。
 
=== 土地・食料・経済状況などの諸問題 ===
{{see|ルワンダの経済|ルワンダの地理}}
1960年代から1980年代初頭にかけて、ルワンダは持続的な成長を遂げ続けたアフリカの優等国であった。しかしながら、1980年代後半には主要貿易品目であったコーヒーの著しい値崩れなどを受け経済状況は大きく悪化し、さらに1990年に行われた[[国際通貨基金]]の[[構造調整プログラム]]([[:en:Enhanced Structural Adjustment Facility]]:ESAF)も不十分であったため、状況の一層の悪化を招く結果こととなった。その結果として、失業率の著しい悪化や社会格差による貧困などの諸問題が噴出し、特に若者を中心として不満を募らせるようになっていった<ref>松村高夫(著)、矢野久(著)『大量虐殺の社会史―戦慄の20世紀 (MINERVA西洋史ライブラリー) 』、ミネルヴァ書房、2007年12月、pp.238-239。</ref>。
 
また、ルワンダは国土の比較的狭い国であったが、「千の丘の国」と呼ばれる平均標高の高い土地のために温暖気候へ属し、人の居住に適していたほか、土地が肥沃で自然環境も豊かなことで知られていた。しかし、1948年に180万人であった人口が1992年には四倍を超える750万人にまで増加したことから、アフリカで最も人口密度の高い国となり、その結果として農地などの土地不足の問題が発生するようになった。加えて人口の増加により食料不足の問題が生じ、国民の6人に1人が飢えに苦しむ状況となっていた<ref>松村高夫(著)、矢野久(著)『大量虐殺の社会史―戦慄の20世紀 (MINERVA西洋史ライブラリー) 』、ミネルヴァ書房、2007年12月、pp.237-238。</ref>。
 
=== ルワンダ紛争 ===
{{Main|ルワンダ紛争}}
[[ファイル:Kagame.jpg|thumb|left|200px|ルワンダ紛争時の[[ルワンダ愛国戦線]]司令官であり、現ルワンダ共和国大統領の[[ポール・カガメ]]。]]
[[1990年]]、[[ウガンダ]]のツチ難民を中心に結成した[[ルワンダ愛国戦線]](RPF)がルワンダ領内に侵攻しルワンダ紛争が勃発する。[[1993年]]、RPFの政権参画と[[国際連合平和維持活動|国連平和維持軍]]の派遣を認めるアルーシャ和平協定が締結される。
[[画像:Bagosora Diary Agenda 1992.jpg|thumb|right|200px|1992年2月の[[テオネスト・バゴソラ]]大佐の日記。市民自己防衛計画の仕組みが記されている。]]
1980年頃にツチ系難民は、政治的組織や軍事的組織としての団結を行うようになった。ウガンダでは1979年にルワンダ難民福祉基金が設立され、翌1980年に同組織が発展する形で国家統一ルワンダ人同盟が結成された<ref>武内進一『現代アフリカの紛争を理解するために』、ジェトロ・アジア経済研究所、1998年3月、p282。[http://www.ide.go.jp/Japanese/Publish/Download/Report/pdf/report_1.pdf]</ref>。1981年から1986年まで行われた[[ウガンダ内戦]]における反政府組織であり、最終的に勝利を納めた[[国民抵抗運動]] (NRM) に参加した者も多く、1986年時点で国民抵抗運動の約2割がツチであったことが知られている。しかしながら、内戦の初期から国民抵抗運動に参加していたツチらは相応の高い地位を得ていたものの、[[ヨウェリ・ムセベニ]]ウガンダ大統領のルワンダ難民問題に関する姿勢の変節などにより、強い失望を受けた。そのため、1987年になると新たにルワンダ愛国戦線を結成し、ルワンダへの帰還を目指すようになった。
 
1990年から1993年までの期間、アカズからの指示を受けたフツにより、雑誌の[[カングラ]]が作られた。この雑誌はルワンダ政府に批判的なツチ系の雑誌、[[カングカ]]を真似たものであり、政府に対する批判を一応は行いつつも、主たる目的はツチに対する侮蔑感情の煽動であった<ref name=C>Linda Melvern, ''Conspiracy to Murder: The Rwandan Genocide'', Verso, 2004, ISBN 1859845886, p. 49</ref>。また、この雑誌のツチに対する攻撃姿勢は、植民地時代以前の経済的優遇を非難することよりも、ツチという民族そのものを攻撃することが中心であった。同誌の設立者であり編集者でもあった[[ハッサン・ンゲゼ]]は、数々の煽動的報道を行ったことで知られており、特にンゲゼの書いた[[フツの十戒]]は[[フツ・パワー]]イデオロギーの公式理念と呼ばれ、学校や政治集会などの様々な場面で読み上げられた。1992年には、ハビャリマナ大統領の宥和的姿勢に反発した権力中枢部により、極端なフツ至上主義を主張する[[共和国防衛同盟]](CDR)が[[開発国民革命運動]]から分離する形で結成された。また同年には、開発国民革命運動の青年組織として[[インテラハムウェ]]が、共和国防衛同盟の青年組織として[[インプザムガンビ]]が設立された。後にこの両組織はルワンダ虐殺で大きな役割を果たす民兵組織となる。なお、共和国防衛同盟はルワンダ愛国戦線との間にアルーシャ合意を結ぶことを強く反対した結果、1993年8月に成立した同協定と、協定に従い設立された暫定政権から排斥されることとなった。
 
1993年にはアルーシャ協定に従い、停戦による哨戒活動のほか武装解除と動員解除を支援する目的で、国連平和維持軍が展開された。同年3月時点の報告書によれば、1990年のルワンダ愛国戦線による侵攻以降、1万人のツチが拘留され、2000人が殺害されたことが明らかとなっている状況であった。1993年8月、国連軍の司令官であった[[ロメオ・ダレール]]少将は、ルワンダの状況評価を目的とした偵察を行った後に5000人の兵員を要請したが、最終的に確保できたのは要請人数の約半分にあたる2548人の軍人と60人の文民警察であった<ref>Neuffer, Elizabeth. ''The Key to My Neighbor's House''. 2002, page 102</ref>。なお、この時点のダレールは、ルワンダでの任務は標準的な平和維持活動であると考えていた。
 
=== 組織的虐殺の準備 ===
ルワンダ虐殺は非常に組織立った形で行われたことが明らかとなっている<ref>"Leave None to Tell the Story: Genocide in Rwanda." Human Rights Watch. [http://www.hrw.org/reports/1999/rwanda/ Report (Updated April 1, 2004)]</ref>。ルワンダ国内では、近所ごとに様々な任務を行う代表者が選出されたほか、民兵の組織化が全国的に行われ、民兵の数は10家族あたり1人となる3万人にまで達していた。一部の民兵らは、書類申請を行うことで[[AK-47]][[アサルトライフル]]を入手することができ、[[手榴弾]]などの場合では書類申請すら必要なく容易に入手することが可能であった。なお、[[インテラハムウェ]]や[[インプザムガンビ]]のメンバーの多くは、銃火器ではなく[[マチェテ|マチェーテ]]や[[釘バット|マス]]といった伝統的な武器で武装を行っていた。
 
ルワンダ虐殺当時の首相であった[[ジャン・カンバンダ]]は、[[ルワンダ国際戦犯法廷]]の事前尋問で「ジェノサイドに関しては閣議で公然と議論されていた。当時の女性閣僚の1人は、全てのツチをルワンダから追放することを個人的に支持しており、他の閣僚らに対して"ツチを排除すればルワンダにおける全ての問題は解決する"と話していた」と証言している<ref>Qtd. by Mark Doyle. "Ex-Rwandan PM reveals genocide planning." BBC News. On-line posting. [http://news.bbc.co.uk/1/hi/world/africa/3572887.stm March 26, 2004].</ref>。カンバンダはさらに、ジェノサイドを主導した者の中には退役軍人であった[[テオネスト・バゴソラ]]大佐や[[オーギュスタン・ビジムング]]少将、[[ジャン=バティスト・ガテテ]]といった軍や政府の高官の多数が含まれており、さらに地方レベルのジェノサイド主導者であれば、市長や町長、警察官も含まれるとも述べた。
 
ベルギーの植民地時代以降、ルワンダに暮らすツチとフツには出自民族を示すIDカードが与えられていたが、このIDカードがルワンダ虐殺の際にインテラハムウェが出身民族をチェックするための指標の1つとなった。また、民族の"識別"には皮膚の色も一般的な身体的特徴として利用され、肌の色が比較的薄い者が典型的なツチであり、肌の色が比較的濃い者が典型的なフツであるとされた。また、独立以降のルワンダでは、ツチの男性、女性、子供は一般住民と多くの場合区別されており、時にはフツの奴隷となることを強いられることもあった。また、ツチ族女性に関しては、フツから「ジプシー」と呼ばれて蔑まれていたほか、頻繁に性的暴力の被害に遭っていた。さらに、政府指導者は全国地域から選出された様々な国民組織の代表者や、「共に立ち上がる(or 戦う or 殺す)者」を意味する[[インテラハムウェ]]や、「同じ( or 単一の)ゴールを目指す者」を意味する[[インプザムガンビ]]と呼ばれる民兵からなる軍事組織と意思疎通を行っていた。これらの組織では、特に若者がその暴力行為の大半を担っていたことが知られている<ref>Melvern, Linda. ''Conspiracy to Murder''. 2006, p. 25-8</ref>。
 
=== メディア・プロパガンダ ===
研究者の報告によれば、ルワンダ虐殺においてニュースメディアは重要な役割を果たしたとされる。具体的には、新聞や雑誌といった地域の活字メディアやラジオなどが殺戮を煽る一方で、国際的なメディアはこれを無視するか、事件背景の認識を大きく誤った報道を行った<ref>http://www.comminit.com/en/node/189378/36</ref>。当時のルワンダ国内メディアは、まず活字メディアがツチに対するヘイトスピーチを行い、その後にラジオがフツ過激派を煽り続けたと考えられている。評論家によれば、反ツチのヘイトスピーチは「模範的と言えるほどに組織立てられていた」という。ルワンダ政府中枢部の指示を受けていたカングラ誌は、1990年10月に開始された反ツチおよび反ルワンダ愛国戦線キャンペーンにおいて中心的な役割を担ったことで知られる。現在進行中の[[ルワンダ国際戦犯法廷]]では、カングラの背景にいた個人らを、1992年にマチェーテの絵と『1959年の社会革命を完了するために我々は何をするか?(What shall we do to complete the social revolution of 1959?)』の文章を記したチラシを製作した件について告発を行った(なお、このチラシにある1959年の社会革命時には、ツチ系の王政廃止やその後の政治的変動を受けた社会共同体によるツチへの排撃活動の結果、数千人のツチが死傷し、約30万人ものツチがブルンジやウガンダへ逃れて難民化するのを余儀なくされたことが知られている)。カングラはまた、ツチに対する個人的対応や社会的対応、フツはツチを如何に扱うべきかについて論じた文章として悪名高い[[フツの十戒]]や、一般大衆の煽動を目的とした大規模戦略として、ルワンダ愛国戦線に対する悪質な誹謗・中傷を行った。この中でよく知られたものとしては「ツチの植民地化計画(Tutsi colonization plan)」などがある<ref>[http://www.internews.org.rw/case_study.htm internews "Case study - Rwanda"][http://web.archive.org/web/20080324010244/http://www.internews.org.rw/case_study.htm Webarchive log]</ref>。
 
ルワンダ虐殺当時、ルワンダ国民の識字率は低く権力に盲追する傾向があったことから、政府が国民にメッセージを配信する手段として、ラジオは重要な存在であった。ルワンダの内戦勃発以降からルワンダ虐殺の期間において、ツチへの暴力を煽動する上での鍵となったラジオ局は[[ラジオ・ルワンダ]]と[[ミルコリンヌ自由ラジオ・テレビジョン]](RTLM)の2局であった。ラジオ・ルワンダは、1992年3月に首都キガリの南部都市、[[ブゲセラ]](Bugesera)に住むツチの虐殺に関して、ツチ殺害の直接的な推奨を最初に行ったラジオとして知られている。同局は、コミューンの長であった[[フィデール・ルワンブカ]]や副知事であった[[セカギラ・フォスタン]]ら反ツチの地方公務員が主導する「ブゲセラのフツはツチから攻撃を受けるだろう」という警告を繰り返し報道した<ref>武内進一『現代アフリカの紛争と国家 ポストコロニアル家産制国家とルワンダ・ジェノサイド』、p.262、明石書店、2009年2月。</ref>。この高位の公務員によるメッセージは、フツに"先制攻撃することによって我が身を守る必要がある"ことを納得させ、その結果として兵士に率いられたフツ市民やインテラハムウェのメンバーにより、ブゲセラに暮らすツチが襲撃され、数百人が殺害された<ref name="idrc.ca">{{cite web|url=http://www.idrc.ca/rwandagenocide/ev-108178-201-1-DO_TOPIC.html|title=Part 1: Hate media in Rwanda|author=Alison Des Forges|date=|publisher=The International Development Research Centre|accessdate=2010-03-15}} </ref>。また、1993年の暮れにミルコリンヌ自由ラジオ・テレビジョンはフツ出身のブルンジ大統領、[[メルシオル・ンダダイエ]]の暗殺事件をツチの残虐性を殊更強調する非常に扇情的な形で報道を行い、さらにンダダイエ大統領は殺害される前に性器を切り落とすなどの拷問を受けていたとの虚偽報道を行った(なお、この報道は、植民地時代以前におけるツチの王の一部が、打ち負かした敵対部族の支配者を去勢したという歴史的事実が背景となっている)。さらに、1993年10月下旬からのミルコリンヌ自由ラジオ・テレビジョンは、フツとツチ間の固有の違い、ツチはルワンダの外部に起源を持つこと、ツチの富と力の配分の不均一、過去のツチ統治時代の恐怖などを強調した、フツ過激派による出版物を基にした話題を繰り返し報道した。また、「ツチの陰謀や攻撃を警戒する必要があり、フツはツチによる攻撃から身を守るために備えるべきである」との見解を幾度も報じていた<ref name="idrc.ca"/>。1994年4月6日以降、当局がフツ過激派を煽り、虐殺を指揮するために両ラジオ局を利用した。特に、虐殺当初の頃に殺害への抵抗が大きかった地域で重点的に用いられた。この2つのラジオ局はルワンダ虐殺時に、フツ市民を煽動、動員し、そして殺害を実行させるための指示を与える目的で使用されたことが知られている<ref name="idrc.ca"/>。
 
上記に加え、ミルコリンヌ自由ラジオ・テレビジョンは、フツ難民からなるルワンダ愛国戦線のゲリラを、ルワンダ語でゴキブリを意味するイニェンジ(inyenzi)の語で呼び、同ゲリラが市民の服装を着て戦闘地域から逃れようとする人々に混ざることについて特に注意を促していた。これらの放送は、全てのツチが必ずルワンダ愛国戦線による政府への武力闘争を支持していたかような印象を与えた<ref name="idrc.ca"/>。また、フツ女性は、1994年のジェノサイド以前の反ツチプロパガンダでも取り上げられており、例えば1990年12月に発行されたカングラに掲載された『[[フツの十戒]]』の第四戒では、ツチ女性はツチの人々の道具であり、フツ男性を弱体化させて最終的に駄目にする目的で用いられるツチの性的な武器として描写されていた<ref name="books.google.co.uk">{{cite book |last= de Brouwer |first=Anne-Marie |title= Supranational Criminal Prosecution of Sexual Violence |origyear=2005 |url=http://books.google.co.uk/books?id=JhY8ROsA39kC&dq=war+rape+in+ancient+times&source=gbs_summary_s&cad=0 |publisher=Intersentia |isbn=9050955339 |pages=13 |year= 2005 }}</ref>。新聞の風刺漫画などにもジェンダーの基づくプロパガンダが見られ、そこでツチ女性は性的対象として描かれており、具体的な例としては、「ツチの女どもは、自分自身が我々には勿体無いと考えている(You Tutsi women think that you are too good for us)」とか「ツチの女はどんな味か経験してみよう(Let us see what a Tutsi woman tastes like)」といった強姦を明言するような発言を含む、[[戦時下の強姦]]([[:en:war rape]])を煽るような言説がしばしば用いられた<ref name="books.google.co.uk"/>。
 
なお、同様のメディア・プロパガンダにより、隣国のブルンジでも1993年のンダダイエ大統領暗殺により[[ブルンジ虐殺]]が発生し、約5万人の市民が殺害され、約30万人が難民化した。
 
=== 国際連合の動向 ===
[[画像:Darfur-Rally 019.jpg|thumb|left|200px|[[国際連合ルワンダ支援団]]の司令官であった[[ロメオ・ダレール]]将軍。]]
1994年1月11日、[[カナダ]]出身の[[国際連合ルワンダ支援団]](UNAMIR)の司令官[[ロメオ・ダレール]]少将は、匿名の密告者から受けた4箇所の大きな武器の貯蔵庫とツチの絶滅を目的としたフツの計画に関して、事務総長と[[モーリス・バリル]]少将に[[ファックス]]を送信した。ダレールからの連絡では、密告者が数日前にインテラハムウェの訓練を担当した同組織トップレベルの指導者であることが記されていたほか、およそ以下のような内容が含まれていた<ref>{{cite web|url=http://www.gwu.edu/~nsarchiv/NSAEBB/NSAEBB53/rw011194.pdf|title=国連本部へ送られたダレールファックスの原文|author=ロメオ・ダレール|date=|publisher=ジョージ・ワシントン大学|accessdate=2010-03-15}}</ref>。
 
* 軍事訓練の目的はインテラハムウェの自衛ではなく、キガリに駐屯するルワンダ愛国戦線の大隊と国際連合ルワンダ支援団のベルギー軍を武力で刺激することである。
* [[インテラハムウェ]]の筋書きでは、ベルギー兵とルワンダ愛国戦線をルワンダから撤退させるつもりである。
* 戦闘によってベルギー兵数人を殺害すれば、人数や武装的に平和維持軍の要となっているベルギー軍全体が撤退すると考えている。
* ベルギー軍後にツチは排撃されるだろう。
* インテラハムウェの兵1700人が政府軍キャンプで訓練を受けている。
* これまでは、マチェーテ(山刀)やマス(多数の釘を打ち付けた棍棒)といった伝統的な武器が主流であったが、AK-47などの銃火器が民兵組織の間で普及しつつある。
* 密告者自身やその同僚はキガリに住む全てのツチをリスト化するように命じられた。その目的はツチを絶滅させることである可能性があり、例えば我々の部隊であれば、1000人のツチを20分間で殺害することが可能である。
* ハビャリマナ大統領は過激派を統制し切れていないのではないだろうか。
* 密告者はルワンダ愛国戦線と敵対しているが、罪の無い国民を殺害することには反対である。
 
[[ファイル:Kofi Annan.jpg|thumb|right|200px|ルワンダ虐殺当時に国連平和維持活動局のPKO担当国連事務次長であった[[コフィー・アナン]]。]]
ダレールは、国際連合ルワンダ支援団部隊による武器貯蔵場所を制圧する緊急の計画を立案し、この計画が平和維持軍の目的に適うものであると考えて、国連に持ちかけた。しかし、翌日に国連平和維持活動局本部から送られた回答では「武器庫制圧の計画は、国連安保理決議第872号(Security Council Resolution 872)にて国際連合ルワンダ支援団に付与された権限を越えるものである」として、ダレールの計画は却下された。このダレールの計画を却下したのは、当時国連平和維持活動局のPKO担当国連事務次長であり、後に[[国連事務総長]]となる[[コフィー・アナン]]であった<ref>首藤信彦『予防外交とPKO』, Human Security, No. 5(2000/2001), p127[http://www.tokai.ac.jp/spirit/archives/human/pdf/hs05/02_04.pdf]</ref>。なお、国連はダレールの計画を却下し代わりとして、ハビャリマナ大統領に対してアルーシャ協定違反の可能性を指摘する通知が行われ、この問題に関する対策の回答を求めたが、それ以降密告者からの連絡は二度と無かったという。後に、この1月11日の電報は、ジェノサイド以前に国連が利用可能であった情報がどのようなものであったかを議論する上で、重要な役割を果たすこととなった<ref>{{cite web|title=Report of the Independent Inquiry into the Actions of the United Nations During the 1994 Genocide in Rwanda|url=http://129.194.252.80/catfiles/1614.pdf|format=PDF|pages=4–5|publisher=|date=December 15, 1999|accessdate=2010-03-15}}[http://web.archive.org/web/20070703105959/http://129.194.252.80/catfiles/1614.pdf Webarchive log]</ref>。翌月の2月21日には、フツ過激派により[[社会民主党 (ルワンダ)|社会民主党]]出身の[[フェリシアン・ガタバジ]](Félicien Gatabazi)公共建設大臣が暗殺され、さらにその翌日には報復として[[共和国防衛同盟]]の[[マルタン・ブギャナ]](Martin Bucyana)が殺害されたが、国際連合ルワンダ支援団は国連本部から殺人事件の調査を行う許可を得られず、対応することができなかった。
 
1994年4月6日、ミルコリンヌ自由ラジオ・テレビジョンは、ベルギーの平和維持軍がルワンダ大統領の搭乗する航空機を撃墜、あるいは撃墜を援助したとする批難を行った。この報道が後にルワンダ軍の兵士によりベルギーの平和維持軍の10人が殺害される結果に結びつくのである<ref>{{cite web|url=http://www.idrc.ca/rwandagenocide/ev-108178-201-1-DO_TOPIC.html|title=Hate media in Rwanda|author=Alison Des Forges|date=|publisher=The International Development Research Centre|accessdate=2010-03-15}}</ref>。
 
なお、[[国際連合]]から国際連合ルワンダ支援団へ下された[[マンデート]](任務)では、ジェノサイドの罪を犯している状態でない限りは、国内政治への介入はいかなる国の場合でも禁じられていた。[[カナダ]]、[[ガーナ]]、[[オランダ]]は、ロメオ・ダレールの指揮の下、国連からの任務を首尾一貫して提供し続けたが、国連安全保障理事会から事態介入に必要となる適切なマンデートを得ることができなかった。
 
=== 宗教界の動向 ===
[[File:Ntrama Church Altar.jpg|thumb|right|200px|ントラマ教会(Ntrama Church)では、5000人もの避難民が、手榴弾で、マチェーテで、銃で、あるいは生きたまま焼かれて虐殺された。聖堂には現在も毛布や子供の靴、犠牲者の遺骨の一部が散らばり、祭壇には頭蓋骨が残されている。]]
{{Main|ルワンダの宗教}}
ルワンダ虐殺がジェノサイドへと至った動機としては、宗教対立などの要因はさほど無かったとされる。しかしながら上でも述べたように、ルワンダにおいてローマカトリック教会はツチとフツの対立形成に大きな役割を果たした。19世紀末から第二次政界大戦頃の植民地時代において、カトリック教会はハム仮説に基づくツチの優位性を最も強く主張したことが知られている。その一方で、1950年代後半以降はフツ側に肩入れするようになり、ルワンダ虐殺時にも多くのカトリックの指導者がジェノサイドへの批判を行わず、むしろ多くの聖職者が虐殺に協力したことが明らかとなっている。なお、国民の大多数はカトリック教徒であるこの国で、ルワンダ虐殺に協力した一般住民の多くが「ツチの虐殺は神の意思に沿うものである」と考えていたことは、カトリック教会の行動を示すものであると言えるものであろう<ref>饗場和彦「ルワンダにおける1994年のジェノサイド」『徳島大学社会科学研究』第19号 2006年1月 pp.58-59</ref>。虐殺終結後のルワンダ国際戦犯法廷では、[[ニャルブイェ大虐殺]]に関与した[[司祭]]の[[アタナゼ・セロンバ]]([[:en:Athanase Seromba]])など複数の宗教指導者らが告発され、裁判の結果として有罪判決を受けている<ref name="wf">''Dictionary of Genocide"'', Samuel Totten, Paul Robert Bartrop, Steven L. Jacobs, p. 380, Greenwood Publishing Group, 2008, ISBN 0313346445</ref>。
 
なお、[[ヒューマン・ライツ・ウオッチ]]は、ルワンダの宗教的権威者、特にローマカトリックの聖職者は、ジェノサイド行為に対する批難を怠ったと報告しているが<ref>[http://www.hrw.org/reports/1999/rwanda/Geno4-7-03.htm#P893_245534 Rwandan Genocide: The Clergy] Human Rights Watch</ref>、ローマカトリック教会は「ルワンダでは大量虐殺が行われたが、これら虐殺行為への参加に関して教会は許可を与えていない」と主張している<ref name="wf"/>。
 
== ハビャリマナ大統領の暗殺から虐殺初期まで ==
{{Main|ハビャリマナとンタリャミラ両大統領の暗殺}}
{{Main|ルワンダ虐殺における初期の出来事}}
[[File:DF-SC-83-02204.jpg|thumb|left|200px|1994年4月6日に航空機事故で死亡した、ルワンダの[[ジュベナール・ハビャリマナ]]大統領。ハビャリマナの死がルワンダ虐殺の始まりの合図となった。]]
 
キガリでの土地への準備1994年4月6日、ルワンダの[[ジュベナール・ハビャリマナ]]大統領とブルンジの[[シプリアン・ンタリャミラ]]大統領の搭乗する飛行機が、何者かのミサイル攻撃を受けて[[キガリ国際空港]]への着陸寸前に撃墜され、両国の大統領が死亡した。攻撃を仕掛けた者が不明であったため、ルワンダ愛国戦線とフツ過激派の双方が互いに非難を行った。そして、犯行者の身元に関する両陣営の意見は相違したまま、この航空機撃墜による大統領暗殺は1994年7月まで続くこととなるジェノサイドの引き金となった。
 
[[Image:UNAMIR Blue Barrets memorial Kigali (3).jpg|thumb|250px|right|[[キガリ]]にて、過激派の襲撃を受けて[[国際連合ルワンダ支援団]]のベルギー人職員が殺害された事件の記念施設。]]
4月6日から4月7日にかけて、旧ルワンダ軍 (FAR) の上層部と国防省の官房長であった[[テオネスト・バゴソラ]]大佐は、国際連合ルワンダ支援団のロメオ・ダレール少将と口頭で議論を行った。この時ダレールは、法的権限者の[[アガト・ウィリンジイマナ]]([[:en:Agathe Uwilingiyimana]])首相にアルーシャ協定に基づいて冷静に対応し、事態のコントロールを行うよう伝えることをバゴソラ大佐へ強く依頼したが、バゴソラはウィリンジイマナの指導力不足などを理由にこれを拒否した。最終的にダレールは、軍によるクーデターの心配は無く、政治的混乱は回避可能であると考え、ウィリンジイマナ首相を保護する目的でベルギー人とガーナ人の護衛を送り、7日の午前中に首相がラジオで国民に対し、冷静を呼びかけるような放送を行うことを期待した。しかし、ダレールとバゴソラの議論が終わった時点でラジオ局は既に大統領警備隊によって占拠されており、ウィリンジイマナ首相によるスピーチは不可能な状況であった。この大統領警備隊によるラジオ局制圧の際、平和維持軍は捕虜となり武器を没収されている。さらに同日の午前中にウィリンジイマナ首相は夫とともに大統領警備隊により首相邸宅で殺害された。この際、首相邸宅を警護していた国際連合ルワンダ支援団の護衛のうち、ガーナ兵は武装解除されたのみであったが、ベルギー小隊の10人は武装解除の上で連行された後、殺害された。
 
[[File:Belgian Soldier Memorial.jpg|thumb|250px|left|同記念施設の外観、砲弾の跡が数多く残されている。]]この事件に関しては、2007年にベルギー[[ブリュッセル]]の裁判所において、ベルギー兵の連行を命じた[[ベルナール・ントゥヤハガ]]少佐([[:en:Bernard Ntuyahaga]])が有罪判決を受けることとなった<ref>[http://www.afpbb.com/article/disaster-accidents-crime/crime/2248932/1748498 APF通信 "ルワンダ政府軍元少佐、国連平和維持部隊兵士殺害で有罪"]</ref>。また、首相以外にも農業・畜産・森林大臣の[[フレデリック・ンザムランバボ]](Frédéric Nzamurambaho)や労働・社会問題大臣の[[ランドワルド・ンダシングワ]]([[:en:Lando Ndasingwa]])、情報大臣の[[フォスタン・ルチョゴザ]]([[:en:Faustin Rucogoza]])、憲法裁判所長官の[[ジョゼフ・カヴァルガンダ]]([[:en:Joseph Kavaruganda]])、前外務大臣の[[ボニファス・ングリンジラ]](Boniface Ngulinzira)などのツチやフツ穏健派、あるいはアルーシャ協定を支持していた要人が次々と暗殺された<ref>武内進一『現代アフリカの紛争と国家 ポストコロニアル家産制国家とルワンダ・ジェノサイド』、p.302、明石書店、2009年2月。</ref>。このジェノサイド初日の出来事に関して、ダレールは自著『''Shake Hands with the Devil'' 』にて以下のように述べている。
 
<blockquote>私は軍司令部を召集し、[[ガーナ]]人[[准将]]の[[ヘンリー・アニドホ]]([[:en:Henry Kwami Anyidoho]])と連絡を取った。アニドホはゾッとするようなニュースを私に伝えた。国際連合ルワンダ支援団が保護していた、ランドワルド・ンダシングワ([[自由党 (ルワンダ)|自由党]]の党首)、ジョゼフ・カヴァルガンダ(憲法裁判所長官)、その他多くの穏健派の要人が大統領警備隊によって家族と共に誘拐され、殺害された……(中略)……国際連合ルワンダ支援団は首相のフォスタン・トゥワギラムングを救出し、現在はトゥワギラムングを軍司令部で匿っている<ref>Roméo Dallaire. "Shake Hands with the Devil: The Failure of Humanity in Rwanda". London: Arrow Books, 2004. 242-244. ISBN 0-09-947893-5</ref>。</blockquote>
 
上記のように、[[共和民主運動]]の指導者であった[[フォスタン・トゥワギラムング]]は、国際連合ルワンダ支援団の保護を受けて暗殺を免れた。なお、トゥワギラムングはウィリンジイマナ首相の死後に首相就任すると考えられていたが、4月9日に暫定大統領となった[[テオドール・シンディブワボ]]が首相として任命したのは[[ジャン・カンバンダ]]であった。ルワンダ紛争終結後の1994年7月19日、トゥワギラムングはルワンダ愛国戦線が樹立した新政権で首相へ就任した。
 
== ジェノサイド ==
[[File:Genocide victim.jpg|thumb|left|200px|ルワンダ虐殺の犠牲者。]]
フツのエリート政治家の多くが、紛争終結後の裁判によりジェノサイドの組織化を行った罪で有罪とされている。ルワンダ軍のほか、インテラハムウェやインプザムガンビといったフツ民兵グループは、組織的活動として捕らえたツチを年齢や性別に関わらず全て殺害していった。また、穏健派フツは裏切り者として真っ先に殺害された。フツの市民は虐殺に協力することを強いられ、ツチの隣人を殺害するよう命令を受けた。この命令を拒んだものはフツの裏切り者として殺害された。大半の国が首都キガリから自国民を避難させ、虐殺初期の時点で同国内の大使館を放棄した。状況の悪化を受けて、国営ラジオの[[ラジオ・ルワンダ]]は人々に外出しないよう呼びかけを行う一方で、フツ至上主義者の所有する[[ミルコリンヌ自由ラジオ・テレビジョン]]はツチと穏健派フツに対する辛辣なプロパガンダ放送を繰り返し行った。国内各地の道路数百箇所で障害物が積み上げられ、民兵による検問所が構築されていた。大々的にジェノサイドが勃発した4月7日にキガリ内にいたダレールと国際連合ルワンダ支援団メンバーは保護を求めて逃げ込んでくるツチの保護を行ったが、徐々にエスカレートしていくフツの攻撃を止めることができなかった。この時、過激派フツはミルコリンヌ自由ラジオ・テレビジョンの報道を受けて、ダレールと国際連合ルワンダ支援団メンバーも標的の1つとしていた。4月8日、ダレールはニューヨークへ、フツ過激派を虐殺行為へ走らせる推進力が同国の民族性であることを暗示した電報をニューヨークへ送っている。また同電報には、複数の閣僚を含む政治家や平和維持軍のペルギー兵が殺害されたことも詳述されていた。ダレールはまた、この現在進行中の虐殺行為が極めて組織立ったものであり、主に大統領警備隊によって指揮がなされていることを国連に報告している。
 
4月9日、国連監視団は[[ギコンド虐殺|ギコンドのポーランド人教会にて多数の児童が虐殺される]]のを目撃した。同日に、高度に武装化した練度の高い欧州軍の兵士1000人が、ヨーロッパ市民の国外避難を護衛するためにルワンダ入りした。この部隊は国際連合ルワンダ支援団を援護するための滞在は一切行わなかった。9日になると、[[ワシントン・ポスト]]紙が同国駐在員を恐怖させた事件として、国際連合ルワンダ支援団の職員が殺害された事実を報道した。また、4月9日から10日にかけて、アメリカのローソン駐ルワンダ大使と250人のアメリカ人が国外へ避難した。
 
[[Image:Rwandan Genocide.jpg|thumb|right|200px|[[ニャマタ虐殺記念教会]]に展示されている頭骸骨。]]
ジェノサイドは速やかにルワンダ全土へ広がっていった。虐殺の過程で一番初めに組織的な行動を行ったのは、国内北西部に位置する[[ギセニ県]](現[[西部州 (ルワンダ)|西部州]])の中心都市、[[ギセニ]]の市長であった。市長は4月6日の夜の時点で武器の配布を目的とした会合を行い、ツチを殺すために民兵を送り出していた。ギセニは航空機の撃墜によって暗殺されたハビャリマナ大統領の出身地であるほか[[アカズ]]の拠点地域でもあり、さらに南部地域がルワンダ愛国戦線に占領されたことから数千人のフツがこの地域に[[国内避難民]]として流れ込んでいたため、反ツチ感情の特に激しい土地となっていたのである。なお、4月6日から数日後には[[ブタレ県]]内を除いた国内のほぼ全ての都市で、キガリと同様のツチや穏健派フツ殺害を目的とした組織化が行われた。ブタレ県知事の[[ジャン=バティスト・ハビャリマナ]](Jean-Baptiste Habyarimana)は、国内で唯一ツチ出身の知事で虐殺に反対していたため、ハビャリマナ知事が4月下旬に更迭されるまでの期間は大規模な虐殺が行われなかった<ref name=prun>Prunier, Gérard. ''The Rwanda Crisis''. 1997, p.244</ref>。その後、ハビャリマナ知事が更迭されてフツ過激派の[[シルヴァン・ンディクマナ]](Sylvain Ndikumana)が知事に就任すると<ref name=prun />、ブタレでの虐殺が熱心に行われていなかったことが明らかとなったため、政府は民兵組織のメンバーをキガリからヘリコプターで輸送し、直ちに大規模な虐殺が開始された<ref name=prun />。なお、更迭されたハビャリマナ知事も大統領警備隊によって殺害されたことが明らかとなっている<ref>武内進一『現代アフリカの紛争と国家 ポストコロニアル家産制国家とルワンダ・ジェノサイド』、p.400、明石書店、2009年2月。</ref>。
 
[[Image:Rwandan Genocide Murambi bodies.jpg|left|thumb|200px|[[ムランビ虐殺記念館|ムランビ技術学校]]は現在記念館となっており、虐殺犠牲者の遺体展示を行っている。]]
犠牲者の大半は自身の住んでいた村や町で殺害され、直接手を下したのは多くの場合隣人や同じ村の住人であった。なお、民兵組織の一部メンバーにはライフルを殺害に利用していた者もあったが、民兵は大半の場合マチェーテで犠牲者を叩き切ることで殺害を行った。犠牲者はしばしば町の教会や学校へ隠れているところを発見され、フツの武装集団がこれを虐殺した。一般の市民もツチやフツ穏健派の隣人を殺すよう地元当局や政府後援ラジオから呼びかけを受け、これを拒んだ者がフツの裏切り者として殺害されることが頻繁に生じた。『虐殺へ参加するか、自身を虐殺されるかのいずれか』<ref>Qtd. in ''The Rwanda Crisis: History of a Genocide'' (London: Hurst, 1995), by [[Gérard Prunier]]; rpt. in "Rwanda & Burundi: The Conflict." ''Contemporary Tragedy.'' On-line posting. [http://library.thinkquest.org/12663/summary/contemporarytragedy.htm ''The Holocaust: A Tragic Legacy''].</ref>の状況であったという。4月下旬には[[キブンゴ県]]の[[ニャルブイェ]]において[[ニャルブイェ大虐殺|大規模な虐殺]]が発生し、およそ2万人が虐殺された<ref name=frank>Frank Spalding, ''Genocide in Rwanda'', 36-38pages, The Rosen Publishing Group, 2008. [http://books.google.co.jp/books?id=rsgsy5ba28UC&pg=PA36&dq=Nyarubuye+Rwanda&lr=&as_brr=3&cd=3#v=onepage&q=Nyarubuye%20Rwanda&f=false]</ref>。この虐殺は、フツ出身の市長であるシルヴェストル・ガチュンビチ (Sylvestre Gacumbitsi) の勧めを受けて多数のツチが市内にあったニャルブイェ[[カトリック教会]]へ逃れたが<ref name=frank/>、その後市長は地元のインテラハムウェと協力し、[[ブルドーザー]]を用いて教会の建物を破壊し<ref name="appeals01">{{cite web|url=http://69.94.11.53/ENGLISH/cases/Seromba/appealchamber.htm|title=APPEALS CHAMBER DECISIONS|author=|date=|publisher=International Criminal Tribunal for Rwanda |accessdate=2010-03-15}}</ref>、教会内に隠れていたツチは老若男女を問わずにマチェーテで叩き切られたり、ライフルで撃たれることで大半が虐殺される……という経過で行われた。なお、地元のカトリック司祭であった[[アタナゼ・セロンバ]]は[[ルワンダ国際戦犯法廷]]において、自身の教会をブルドーザーで破壊することに協力した事から、ジェノサイドと[[人道に対する罪]]で有罪となり、無期懲役の判決を受けることとなった<ref name="appeals01" /><ref>{{cite press release|title=Catholic Priest Athanase Seromba Sentenced to Fifteen Years|publisher=International Criminal Tribunal for Rwanda |date=December 13, 2006|url=http://69.94.11.53/ENGLISH/PRESSREL/2006/503.htm|accessdate=2010-03-15}}</ref><ref>{{cite press release|title=Prosecutor to Appeal Against Seromba's Sentence|publisher=International Criminal Tribunal for Rwanda|date=December 22, 2006|url=http://69.94.11.53/ENGLISH/PRESSREL/2006/507.htm|accessdate=2010-03-15}}</ref><ref>{{cite press release|title=ルワンダ国際犯罪法廷、カトリック司祭に終身刑|publisher=APF通信|date=2008.3.13|url=http://www.afpbb.com/article/disaster-accidents-crime/crime/2363448/2729565|accessdate=2010-03-15}}</ref>。その他では、約2000人が避難していたキガリの公立技術学校 (École Technique Officielle) を警護していた国際連合ルワンダ支援団のベルギー兵が避難民を放置したまま4月11日に撤退した結果、ルワンダ軍とインテラハムウェによって[[公立技術学校の虐殺|避難民全員が虐殺された事件]]が発生している<ref>{{cite book|last=|first=|authorlink=|coauthors=|title=ICTR YEARBOOK 1994-1996|publisher=International Criminal Tribunal for Rwanda|date=|location=|pages=77–8|url=http://129.194.252.80/catfiles/0714.pdf|format=PDF|doi=|id=|accessdate=Dead Link}}[http://web.archive.org/web/20070605052302/http://129.194.252.80/catfiles/0714.pdf Webarchive log]</ref>。この事件は2005年に[[ルワンダの涙]]として映画化された。
 
[[Image:Rwandan Genocide Murambi skulls.jpg|200px|thumb|[[ムランビ虐殺記念館|ムランビ技術学校]]で虐殺された犠牲者の頭蓋骨。]]
ハビャリマナ大統領が暗殺された4月6日からルワンダ愛国戦線が同国を制圧する7月中旬までのおよそ100日間に殺害された被害者の数は、専門家の間でも未だ一致が得られていない。[[ナチス・ドイツ]]が[[第三帝国]]で行った[[ユダヤ人]]の虐殺や、[[クメール・ルージュ]]が[[民主カンボジア]]で行った虐殺と異なり、ルワンダ虐殺では殺害に関する記録を当局が行っていなかったのである。ルワンダ解放戦線からなる現ルワンダ政府は、虐殺の犠牲者は107万1000人でこのうちの10%はフツであると述べており、『ジェノサイドの丘』の著者である[[フィリップ・ゴーレウィッチ]]([[:en:Philip Gourevitch]])はこの数字に同意している。一方、国連では犠牲者数を80万人としているほか、アフリカン・ライツ(African Rights)の[[アレックス・デ・ワール]]([[:en:Alex de Waal]])とラキヤ・オマー(Rakiya Omar)は犠牲者数を75万人前後と推定し、[[ヒューマン・ライツ・ウォッチ]]アメリカ本部の[[アリソン・デス・フォージス]]([[:en:Alison Des Forges]])は、少なくとも50万人と述べている。[[イージス・トラスト]]([[:en:Aegis Trust]])の代表である[[ジェイムズ・スミス]](James Smith)は、「記憶する上で重要なのは、それがジェノサイドであったことだ。それは男性、女性、子供全てのツチを抹殺し、その存在の記憶全てを抹消しようと試みたのだ」と書き留めている<ref>{{cite web|url=http://iafrica.com/news/worldnews/314365.htm|title=RWANDA: No consensus on genocide death toll|author=Agence France-Presse|date=April 6, 2004.|publisher=iAfrica.com.|accessdate=2010-03-15}}</ref>。
 
ルワンダ政府の推定によれば、84%のフツ、15%のツチ、1%のトゥワから構成された730万人の人口のうち、117万4000人が約100日間のジェノサイドで殺害されたという。これは、一日あたり1万人が、一時間あたり400人が、1分あたり7人が殺害されたに等しい数字である。また、ジェノサイド終了後に生存が確認されたツチは15万人であったという<ref>饗場和彦「ルワンダにおける1994年のジェノサイド」『徳島大学社会科学研究』第19号 2006年1月 p57。[http://web.ias.tokushima-u.ac.jp/bulletin/pdf/soc-19-3.pdf]</ref>。また、夫や家族を殺害され寡婦となった女性の多くが強姦の被害を受けており、その多くは現在[[HIV]]に感染していることが明らかとなっている。さらに、数多くの孤児や寡婦が一家の稼ぎ手を失ったために極貧の生活を送っている。
 
[[File:Nyamata Memorial Site 13-Version 2.png|thumb|left|200px|[[ニャマタ虐殺記念教会]]にて。]]
また、ルワンダ虐殺では莫大な数の犠牲者の存在とともに、虐殺や拷問の残虐さでも特筆すべきものがあったことが知られている。[[アフリカン・ライツ]]が虐殺の証言をまとめ、1995年に刊行した『Rwanda: Not So Innocent - When Women Become Killers 』には、
 
<blockquote>ナタでずたずたに切られて殺されるので金を渡して銃で一思いに殺すように頼んだ,女性は強姦された後に殺された,幼児は岩にたたきつけられたり汚物槽に生きたまま落とされた,乳房や男性器を切り落とし部位ごとに整理して積み上げた,母親は助かりたかったら代わりに自分の子どもを殺すよう命じられた,妊娠後期の妻が夫の眼前で腹を割かれ,夫は「ほら,こいつを食え」と胎児を顔に押し付けられた――<ref>饗場和彦「ルワンダにおける1994年のジェノサイド」『徳島大学社会科学研究』第19号 2006年1月 p59。[http://web.ias.tokushima-u.ac.jp/bulletin/pdf/soc-19-3.pdf]</ref>。</blockquote>
 
といった報告が数多く詳細に収録されている<ref>饗場和彦「ルワンダにおける1994年のジェノサイド」『徳島大学社会科学研究』第19号 2006年1月 pp81-82。[http://web.ias.tokushima-u.ac.jp/bulletin/pdf/soc-19-3.pdf]</ref>。このほか、被害者の多くがマチェーテや猟銃、鍬などの身近な道具で殺害されたことから、生存者のその後の日常生活において[[PTSD]]を容易に惹起する可能性を指摘する声もある<ref>喜多悦子『紛争時、紛争後におけるメンタル・ヘルスの役割』、独立行政法人国際協力機構、2005年、p15。[http://www.jica.go.jp/jica-ri/publication/archives/jica/kyakuin/pdf/200512_hea.pdf]</ref>。
 
なお、ルワンダ虐殺のさなかに虐殺を食い止め、ツチを保護するための活動を行っていた人々もおり、[[ピエラントニオ・コスタ]]([[:en:Pierantonio Costa]])、[[アントニア・ロカテッリ]]([[:en:Antonia Locatelli]])、[[ジャクリーヌ・ムカンソネラ]]([[:en:Jacqueline Mukansonera]])、[[ポール・ルセサバギナ]]、[[カール・ウィルケンス]]([[:en:Carl Wilkens]])、アンドレ・シボマナ(André Sibomana)らによる活動がよく知られている。
 
=== ルワンダ虐殺下の強姦 ===
1998年、[[ルワンダ国際戦犯法廷]]はルワンダにおける[[戦時下の強姦]]を[[ジェノサイド]]の構成要素の1つであるとする画期的な判断を下した。裁判の席で「性的暴行はツチの民族グループを破壊する上で欠かせない要素であり、強姦は組織的かつツチの女性に対してのみ行われたことから、この行為がジェノサイドとして明確な目的を持って行われたことが明らかである」との判断が下されたのである<ref name=unreport>{{cite web|url=http://69.94.11.53/ENGLISH/annualreports/a54/9925571e.htm|title=General Assembly Security Council|author=Fourth Annual Report|date=September, 1999|publisher=International Criminal Tribunal for Rwanda |accessdate=2010-03-15}}</ref>。しかしながら、組織的な強姦や性的暴力の遂行を明確に命じた文書は見つかっておらず、軍や民兵の指導者が強姦を奨励したか命令した、あるいは強姦を黙認して止めようとしなかったという証言のみが提示されている<ref name="books.google.co.uk"/>。ルワンダ虐殺における強姦は、その女性に対する残虐さの著しい度合いや、強姦が非常に一般的に行われるといったツチ女性に対する性的暴力が煽られた原因として、組織的プロパガンダが大きく寄与していることが、他の紛争下の強姦と比較して際立っていることが指摘されている<ref name="http">{{cite book |last= de Brouwer |first=Anne-Marie |title= Supranational Criminal Prosecution of Sexual Violence |origyear=2005 |url=http://books.google.co.uk/books?id=JhY8ROsA39kC&dq=war+rape+in+ancient+times&source=gbs_summary_s&cad=0 |publisher=Intersentia |isbn=9050955339 |pages=14 |year= 2005 }}</ref>。
 
ルワンダの国連特別報告者、Rene Degni-Seguiによる1996年の報告では、「強姦は命令によるもので、例外は無かった」と述べられている。同報告書はまた「強姦は組織立って行われ、また虐殺者らの武器として使用された」と指摘している。これは虐殺犠牲者の数と同様に強姦の形態から推定することが可能である。先の報告書では、少女を含むおよそ25万から50万のルワンダ人女性が強姦されたと記している<ref name="de Brouwer 2005 11">{{cite book |last= de Brouwer |first=Anne-Marie |title= Supranational Criminal Prosecution of Sexual Violence |origyear=2005 |url=http://books.google.co.uk/books?id=JhY8ROsA39kC&dq=war+rape+in+ancient+times&source=gbs_summary_s&cad=0 |publisher=Intersentia |isbn=9050955339 |pages=11 |year= 2005 }}</ref>。2000年に行われた[[アフリカ統一機構]]主催のルワンダ国際賢人会議(Organization of African Unity’s International Panel of Eminent Personalities on Rwanda)では、「我々は、ジェノサイドを生き残ったほとんどの女性が、強姦もしくは他の性的暴力の被害に遭った、あるいはその性的被害によって深く悩まされたことを確信できる」との結論が出された<ref name="de Brouwer 2005 11"/>。強姦の犠牲者の大半はツチ女性であり、未成年の少女から高齢の女性まで幅広く被害に遭っていたが、一方で男性に対する強姦はほとんど行われなかった<ref name="books.google.co.uk"/>。また、穏健派フツの女性もフツの裏切り者とされ、強姦の被害を受けた。男性に対する性的暴行例は少ないが、殺害時の拷問として男性器の切断が多数行われ、この切断した性器はしばしば群衆の前で晒されていた<ref name="books.google.co.uk"/>。なお、ルワンダ虐殺下における強姦を主体となって行ったのはインテラハムウェなどのフツ民兵らであったが、大統領警備隊を含む旧ルワンダ軍(RAF)の兵士や民兵のほか、民間人による強姦も行われていた<ref name="books.google.co.uk"/>。また、2008年にはルワンダ法務省により、「フランス兵はツチ女性に対する強姦を複数行った」とする声明が出されているが<ref name=katan>{{cite web|url=http://www.afpbb.com/article/war-unrest/2501070/3188984|title=ルワンダ大虐殺にフランス政府が加担、ルワンダ政府が報告書|author=|date=2008年08月06日|publisher=APF通信|accessdate=2010-03-15}}</ref>、これについては現在のところ実証されていない。
 
== 国際連合ルワンダ支援団と国際社会の動向 ==
[[File:UN security council 2005.jpg|thumb|right|200px|国際連合安全保障理事会の会議場。]]
{{Main|国際連合ルワンダ支援団|ルワンダ虐殺における国際社会の動向}}
[[Image:Kigali school chalk board.jpg|thumb|left|キガリの学校の黒板に残されていた落書き。国際連合ルワンダ支援団司令官の"ダレール"の名(Dallaire)と、国際連合ルワンダ支援団[[キガリ州]]司令官の[[リュック・マーシャル]](Luc Marchal)の名(Marchal)、そして骸骨が描かれている。]]
国際連合ルワンダ支援団 (UNAMIR) の活動は、アルーシャ協定の時点から後のジェノサイドに至るまで、資源も乏しいこのアフリカの小国の揉め事に巻き込まれることに消極的であった大多数の国連安全保障理事会メンバーにより妨げ続けられた<ref>''Report of The Independent Inquiry into the Actions of the UN During the 1994 Genocide in Rwanda''; ''Statement of the Secretary-General on Receiving the Report'' [1999])</ref><ref name="Gourevitch on frontline">{{cite web|title=Frontline: interview with Phillip Gourevitch.|url=http://www.pbs.org/wgbh/pages/frontline/shows/evil/interviews/gourevitch.html | accessdate = 2010-03-15}}</ref>。そんな中でベルギーのみが国際連合ルワンダ支援団に対し確固としたマンデートを与えることを要求していたが、四月初旬に大統領の警護を行っていた自国の平和維持軍兵士10人が殺害されると、同国はルワンダでの平和維持任務から撤退した<ref>{{cite web|url=http://americanradioworks.publicradio.org/features/justiceontrial/rwanda_chronology.html|title=CHRONOLOGY OF A GENOCIDE Timeline of Events in Rwanda|author=|date=April 14, 1994|publisher=American RadioWorks|accessdate=2010-03-15}}</ref>。なお、ベルギー部隊は練度も高く、装備も優れていたため、同国の撤退は大きな痛手となった。また、国際連合ルワンダ支援団側はせめて同部隊の装備をルワンダへ残していくよう依頼したが、この要求も拒絶された。
 
その後、国連とその加盟国は現実から著しく外れた方針を採り始めた。ダレールは以前から人員増強の強い要求を行っており、ジェノサイドがルワンダ各地で開始された4月半ばの時点にも事態収拾のための人員要求を行ったが、これらの要求は全て拒否された。さらに、虐殺が進行しているその最中に、[[ロメオ・ダレール]]将軍は国連本部から"国際連合ルワンダ支援団はルワンダにいる外国人の避難のみに焦点を当てた活動行うよう"指示を受けたのであった。この命令変更により、2000人のツチが避難していたキガリの公立技術学校の警護を行っていたベルギーの平和維持部隊は、学校の周囲がビールを飲みながらフツ・パワーのプロパガンダを繰り返し叫ぶ過激派フツに取り囲まれている状況であったにも関わらず、同施設の警護任務を放棄して撤収した。その後、学校を取り囲んでいた武装勢力が学校内へ突入し、数百人の児童を含むおよそ2000人が虐殺された。さらに、この事件から4日後には、安全保障理事会は国際連合ルワンダ支援団を280人にまで減らすという国連安保理決議第912号を決定した<ref>[http://daccess-ods.un.org/access.nsf/Get?Open&DS=S/RES/912%20(1994)&Lang=E&Area=UNDOC UN Security Council Resolution 912 (1994)], implementing an "adjustment" of UNAMIR's mandate and force level as outlined in the [http://daccess-ods.un.org/access.nsf/Get?Open&DS=S/1994/470&Lang=E&Area=UNDOC Special Report of the Secretary-General on the United Nations Assistance Mission for Rwanda] dated April 20, 1994 (document no. S/1994/470)</ref>。なお、その一方で国連安保理は同時期に起こった[[ボスニア紛争]]に対して積極的な活動を行っていたことが知られている。ルワンダの平和維持軍削減を決めた国連安保理決議第912号を可決したのと同じ日に、ボスニア内における安全地帯防衛の堅持を確認した国連安保理決議第913号を通過させたことから、差別的観点からヨーロッパをアフリカよりも優先させたとの指摘がなされている<ref>饗場和彦「ルワンダにおける1994年のジェノサイド」『徳島大学社会科学研究』第19号 2006年1月 p67</ref>。
 
なお、ダレールは国連から与えられた停戦監視のみを目的とするマンデートを無視して住民保護を行い、4月9日には国連平和維持活動局本部から「マンデートに従うよう」指示を受けたことが知られているが、その後もマンデートを無視し続けて駐屯地に逃れてきた避難民の保護を行った<ref>大庭弘継『ルワンダ・ジェノサイドにおける責任のアポリア : PKO指揮官の責任と「国際社会の責任」の課題』、九州大学紀要『政治研究』、2009年3月、p67。[https://qir.kyushu-u.ac.jp/dspace/bitstream/2324/16473/1/p057.pdf]</ref>。しかしながら、平和維持軍人員の完全な不足とマンデートから積極的な介入行動を行うことができず、目の前で殺害されようとする避難民を助けることすらできず<ref>大庭弘継『ルワンダ・ジェノサイドにおける責任のアポリア : PKO指揮官の責任と「国際社会の責任」の課題』、九州大学紀要『政治研究』、2009年3月、p70。[https://qir.kyushu-u.ac.jp/dspace/bitstream/2324/16473/1/p057.pdf]</ref>、平和維持軍の増員と強いマンデートを望むダレールの要求は拒絶された。
 
1999年、ルワンダ虐殺当時の大統領であった[[ビル・クリントン]]はアメリカのテレビ番組のフロントライン([[:en:Frontline (U.S. TV series)]])で"当時のアメリカ政府が'''地域紛争'''に自国が巻き込まれることに消極的であり、ルワンダで進行進行していた殺戮行為が'''ジェノサイド'''と認定することを拒絶する決定を下したことを後に後悔した"旨を明らかにした。この、ルワンダ虐殺から5年後に行われたインタビューにおいて、クリントンは「もしアメリカから平和維持軍を5000人送り込んでいれば、50万人の命を救うことができたと考えている」と述べた<ref name="Frontline">{{cite web|title=Frontline: the triumph of evil.|url=http://www.pbs.org/wgbh/pages/frontline/shows/evil/|accessdate=2010-03-15}}</ref>。
 
[[ファイル:Madeleine Albright.jpg|thumb|right|200px|アメリカの国連大使であった[[マデレーン・オルブライト]]。]]
4月6日にハビャリマナ大統領が死亡した後、新たに大統領へ就任した[[テオドール・シンディクブワボ]]([[:en:Théodore Sindikubwabo]])率いるルワンダ政府は、自国への国際的な非難を最小限にするための活動を行った。当時のルワンダ政府は安全保障理事会の非常任理事国であり、同国の大使は「ジェノサイドに関する主張は誇張されたものであり、我が政府は虐殺を食い止めるためにあらゆる手を尽くしている」と主張し、その結果として国連安全保障理事会はジェノサイドの語を含む議決を出さなかった<ref name=jeno>フィリップ・ゴーレイヴィッチ 著 柳下毅一郎 訳『ジェノサイドの丘〈上〉 ルワンダ虐殺の隠された真実』WAVE出版 2003年6月 p191</ref>
 
その後の1994年5月17日になって、国連は「ジェノサイド行為が行われたかもしれない」ことを認めた<ref>{{Citation|last=Various PBS contributors|title=100 days of Slaughter: A Chronology of U.S./U.N. Actions|url=http://www.pbs.org/wgbh/pages/frontline/shows/evil/etc/slaughter.html|accessdate=2010-03-15}}</ref>。この5月半ばには、既に[[赤十字]]により50万人のルワンダ人が殺害されたとの推定がなされていた。また、国連は大部分をアフリカ国家の軍人からなる5500人の兵員をルワンダへ送ることを決定したが<ref>Schabas 2000:461</ref>、これは虐殺勃発以前にダレールが要求したものと同規模であった。なお、兵員増強の可否に関しては5月13日に投票で決定を行う予定であったが、アメリカの[[マデレーン・オルブライト]]大使の活動により4日間引き伸ばされ、17日まで投票が延期したことが知られている<ref name=jeno/>。さらに国連はアメリカに50台の[[装甲兵員輸送車]]の提供を求めたが、アメリカは国連に対して輸送費用としての650万ドルを含む計1500万ドルをリース費用として要求した。結果として、国連部隊の展開はコスト面や装備の不足などを原因として遅延し、5月17日に国連でアメリカが主張していた通りに非常にゆっくりと展開することとなった<ref>''Evidence of Inaction: A National Security Archive Briefing Book'', ed. Ferroggiaro)</ref><ref name=jeno>フィリップ・ゴーレイヴィッチ 著 柳下毅一郎 訳『ジェノサイドの丘〈上〉 ルワンダ虐殺の隠された真実』WAVE出版 2003年6月 pp191-192</ref>。
 
なお、国際連合ルワンダ支援団(UNAMIR)は1994年7月にルワンダ愛国戦線が勝利を納めた後、同年5月時点で可決済みであった国連安保理第918号に従って人員数を5500人へ増強し(UNAMIR 2)、1996年3月8日までルワンダで活動を行った<ref>[http://www.un.org/Depts/dpko/dpko/co_mission/unamir.htm Homepage] for the United Nations Assistance Mission for Rwanda, un.org</ref>。一方で、国際連合ルワンダ支援団司令官であったダレールは、虐殺が起こることを事前に知りながら食い止められなかったことと、虐殺期間中も積極的な活動を行えなかった事に対する自責の念から任務続行が不可能となり、ルワンダ虐殺終結後の1994年8月に国際連合ルワンダ支援団司令官を離任した。その後、カナダに帰国後も[[うつ病]]や[[PTSD]]に悩まされ続けていたという<ref name=asahi/>。また、帰国後に出演したカナダのテレビ番組では以下のように述べた。
 
<blockquote>私にとって、ルワンダ人の苦境に対する国際社会、とりわけ西側諸国の無関心と冷淡さを悼む行為はまだ始まってもいない。なぜなら、基本的には、非常に兵士らしい言葉遣いで言わせてもらえば、誰もルワンダのことなんか知っちゃいないからだ。正直になろうじゃないか。ルワンダのジェノサイドのことをいまだに覚えている人は何人いる?第二次世界大戦でのジェノサイドをみなが覚えているのは、全員がそこに関係していたからだ。では、ルワンダのジェノサイドには、実のところ誰が関与していた?正しく理解している人がいるかどうか分からないが、ルワンダではわずか三ヵ月半の間にユーゴスラヴィア紛争をすべてをあわせたよりも多くの人が殺され、怪我を負い、追放されたんだ。そのユーゴスラヴィアには我々は6万人もの兵士を送り込み、それだけでなく西側世界はすべて集まり、そこに何十億ドルも注ぎ込んで解決策を見出そうと取り組みを続けている。ルワンダの問題を解決するために、正直なところ何が行われただろうか?誰がルワンダのために嘆き、本当にそこに生き、その結果を生き続けているだろうか?だから、私が個人的に知っていたルワンダ人が何百人も、家族ともども殺されてしまった-見飽きるほどの死体が-村がまるごと消し去られて…我々は毎日そういう情報を送り続け、国際社会はただ見守っていた…<ref>フィリップ・ゴーレイヴィッチ 著 柳下毅一郎 訳『ジェノサイドの丘〈上〉 ルワンダ虐殺の隠された真実』WAVE出版 2003年6月 pp.214-215。</ref>。</blockquote>
 
この発言を行った後の1997年9月、ダレールはベルギーの平和維持軍兵士10人が殺害された件についてベルギー議会で証言を要求されたが、[[コフィ・アナン]]国連事務総長により同議会での証言は禁じられることとなった<ref>フィリップ・ゴーレイヴィッチ 著 柳下毅一郎 訳『ジェノサイドの丘〈上〉 ルワンダ虐殺の隠された真実』WAVE出版 2003年6月 p.214。</ref>。その後の2000年、ダレールは公園でアルコールと睡眠薬を大量服用して自殺を図り、[[昏睡]]状態のところを発見されることとなる<ref name=asahi>朝日新聞 2006年08月17日 朝刊 オピニオン 「虐殺、なぜ防げなかった ルワンダ撤収10年 国連支援団元司令官・ダレール氏に聞く」</ref><ref>{{cite web|url=http://www.cbc.ca/news/background/dallaire/|title=Biography of LGen Roméo Dallaire|author=|date=|publisher= CBC NEWS|accessdate=2010-03-15}}</ref>。
 
== フランスの動向 ==
[[ファイル:Reagan Mitterand 1984 (cropped).jpg|thumb|left|200px|ルワンダ虐殺当時のフランス大統領であった[[フランソワ・ミッテラン]]。]]
イギリス人作家の[[リンダ・メルバーン]]([[:en:Linda Melvern]])は、当時のフランス大統領であった[[フランソワ・ミッテラン]]が、ルワンダ愛国戦線の侵攻をフランス語圏国家に対するイギリス語圏の隣国による明確な侵略であるとみなしていたことが、近年になって公開されたフランスの公文書を調査した結果から明らかとした<ref name=Melvern08>Linda Melvern, "[http://www.timesonline.co.uk/tol/comment/columnists/guest_contributors/article4481353.ece France and genocide]", ''[[The Times]]'', 08 August 2008.</ref>。この文書内でルワンダ愛国戦線は、英語を話す"ツチの国家"の樹立と、アフリカにおけるフランス語圏の影響力を削ぎつつ英語圏の影響力を拡大することを目的とした、ウガンダ大統領を含む"イギリス語圏の陰謀"の一部であると論じている。メルバーンの分析によれば、フランスの政策はルワンダ愛国戦線の軍事的勝利を避けるためのものであり、この政策は、軍人、政治家、外交官、実業家、上級諜報員などの秘密ネットワークにより作られたという。なお、ルワンダ虐殺時に行われたフランスの政策は、議会にも報道機関にも不可解なものであったことが知られている<ref name=Melvern08/>。
 
[[Image:French milouf DF-ST-99-05511.JPEG|thumb|right|200px|空港周囲の蛇腹形鉄条網を整備するフランスの軍人。ルワンダからの避難民の救援活動を行う多国籍軍の活動の一環。]]
6月22日、国連部隊の展開が進む兆しが一向に無かったことから、国連安全保障理事会は国連安保理議決第929号を議決し、[[ザイール]]のゴマへ駐留するフランス軍に対して、"人道上の任務としてルワンダへ介入すること"と、"同任務の遂行に必要であれば、あらゆる手段を使用して良いこと"を承認した<ref name=rikai293>武内進一『現代アフリカの紛争を理解するために』、ジェトロ・アジア経済研究所、1998年3月、p293。[http://www.ide.go.jp/Japanese/Publish/Download/Report/pdf/report_1.pdf]</ref>。フランスは、自国とフランス語圏のアフリカ諸国を中心とした多国籍軍を編成し、ルワンダの南西部全域へ部隊を展開した。このフランス語圏からなる多国籍軍は、ジェノサイドの鎮圧と戦闘行為を停止させることを目的として[[トルコ石作戦|人道確保地帯]]と呼ばれるエリアを確立するが、この地域を介してルワンダ虐殺で中心的な役割を果たした[[ジェノシデール]]や虐殺に関与した過激派フツに対し、[[ザイール]]東部地域などの近隣諸国へ逃亡するのを手助けする結果となった。このトルコ石作戦は、過激派フツを援護するものであったと、駐フランス大使でルワンダ愛国戦線出身の[[ジャック・ビホザガラ]]([[:en:Jacques Bihozagara]])は批難している。ビホザガラは後に「トルコ石作戦はジェノサイド加害者の保護のみを目的としていた。なぜならば、ジェノサイドは"人道確保地帯"の中ですら行われていたのだ。」と証言している<ref>{{cite web|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/africa/6079428.stm|title=France accused on Rwanda killings|author=|date=October 24, 2006|publisher=BBC News|accessdate=2010-03-15}}</ref>。
 
2006年11月17日、フランスの裁判官[[ジャン=ルイ・ブリュギエール]]([[:en:Jean-Louis Bruguière]])は、1994年4月6日に起きた航空機撃墜によるルワンダ大統領[[ジュベナール・ハビャリマナ]]とブルンジ大統領[[シプリアン・ンタリャミラ]]、および3人のフランス人乗組員が死亡した事件の調査結果から、[[ポールカガメ]]現大統領を含むルワンダ愛国戦線の指導者9人に逮捕状を発出した。なお、カガメは現職国家元首として不逮捕特権があるとされたため、国際逮捕状が発行されたのはルワンダ国軍参謀総長であった[[ジェームス・カバレベ]]([[:en:James Kabarebe]])などのカガメ大統領を除いた8人であった<ref>武内進一『現代アフリカの紛争と国家 ポストコロニアル家産制国家とルワンダ・ジェノサイド』、p.298、明石書店、2009年2月。</ref>。カガメ大統領は嫌疑を否定するとともに、この嫌疑は政治的な動機で主張されたものであるとフランスを批難し、同月中にフランスとの外交関係を断絶した。その後、カガメは公式に"ジェノサイドにおけるフランスの関与を告発する"ことを目的としたルワンダ法務省職員からなる委員会の結成を命じた<ref name="AFP">{{cite web|url=http://afp.google.com/article/ALeqM5ivoud7VGPIJv80NnCsNAuC2RnWPw|title=Génocide rwandais: le rapport sur le rôle de la France remis à Paul Kagamé|author=|date=16 nov. 2007|publisher=AFP|accessdate=2010-03-15}}</ref>。このルワンダ政府による調査が政治的な性質を帯びたものであることは、調査期間中の報告がカガメ大統領にのみ行われていたことと、調査結果の公式な報告が行われたのがブリュギエール判事の件からちょうど1年後に当たる2007年11月17日であったことからも明らかであった。ルワンダの司法長官であり調査委員会委員長のジャン・ド・デュ・ムチョ(Jean de Dieu Mucyo)はこの日、「委員会は現在、"この調査が妥当かどうかをカガメ大統領が判断し、宣言を行うことを待つ"状態である」と述べた<ref name="AFP"/>。それから1年後の2008年7月、カガメ大統領は「欧州裁判所がルワンダの当局に対して発行した逮捕状を撤回しなければ、フランス国民をジェノサイドの嫌疑で起訴する。」と脅迫し、またスペイン人裁判官[[フェルナンド・アンドレウ]]([[:en:Fernando Andreu]])によるルワンダ軍将校40人に対する起訴についても撤回を要求した<ref>{{cite web|url=http://articles.latimes.com/2008/feb/07/world/fg-rwanda7|title=Spanish judge indicts Rwanda officers|author=Tracy Wilkinson|date=2008-02-07|publisher=LA Times|accessdate=2010-03-15}}</ref><ref>{{cite web|url=http://afp.google.com/article/ALeqM5jOlufsBxNXIw5nXaUj6N_f1QVvuQ|title=SFrance took part in 1994 genocide: Rwandan report|date=2008-02-05|publisher=AFP|accessdate=2010-03-15}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.rwandaembassy-japan.org/jp/modules/wordpress/index.php?p=58|title=ルワンダ政府、スペイン判事の告発状に対し公式声明を発表|author=|date=2008年2月20日(水曜日)|publisher=ルワンダ共和国大使館|accessdate=2010-03-15}}</ref>。さらに翌月の2008年8月5日、カガメ大統領の命令により調査委員会は調査結果報告書の公開を行った。この報告書では、フランス政府がジェノサイドの準備が行われていたのを察知していたこと、フツ民兵組織のメンバーへの訓練を行うことでジェノサイドに加担したことを批難し、さらに当時の大統領であったミッテランや大統領府事務局長であった[[ユベール・ヴェドリーヌ]]、首相であった[[エドゥアール・バラデュール]]、外務大臣であった[[アラン・ジュペ]]、大統領首席補佐官であった[[ドミニク・ガルゾー・ド・ビルパン]]らを含む、フランスの軍人および政治関係者の33人がジェノサイドに関与したとして名指しで批難を行い、この33人は訴追されるべきであると主張した<ref name=katan/><ref name="BBCR">{{cite web|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/africa/7542418.stm|title=France accused in Rwanda genocide|author=|date= 05 August 2008|publisher=BBC|accessdate=2010-03-15}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.nytimes.com/2008/08/06/world/africa/06briefs-FRENCHACCUSE_BRF.html|title=Rwanda: French accused in genocide|author=|date=06 August 2008|publisher=New York Times|accessdate=2010-03-15}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.reuters.com/article/newsMaps/idUSL568658520080805|title=Rwanda accuses France directly over 1994 genocide|author=Arthur Asiimwe|date=2008-08-05|publisher=Reuters|accessdate=2010-03-15}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.rwandaembassy-japan.org/en/themes/rwanda/rwanda_images/whatsnew/communique_071116jp.pdf|title=1994年にルワンダで実行されたツチ族に対する大虐殺におけるフランス政府の役割を示唆する証拠の収集を担当する独立国家委員会による報告書|author=|date=|publisher=ルワンダ共和国大使館|accessdate=2010-03-15}}</ref>。
上記内容に加えてこの報告書では「フランス軍の兵士自身もツチや穏健派フツの暗殺に直接関与しており……(中略)……フランス軍はツチの生存者に対し、何件もの強姦を行った」と主張されていたが、後者の強姦に関しては実証が行われていない<ref name="BBCR"/>。この件に関しBBCは、フランスの外務大臣[[ベルナール・クシュネル]]の、フランスのジェノサイドに関する責任を否定する一方で、フランスは政治的な誤りを犯していたとするコメントを報道した<ref name="BBCR"/>。また、BBCはルワンダによる調査レポートの動機を徹底調査し、以下のように解説した。
 
<blockquote>
調査委員会の責任者は、ルワンダ愛国戦線のためというよりもむしろ1994年に権力を握ったポール・カガメ大統領に権威をもたらす目的で、世界の人々にジェノサイドへの関心を持たせ続けることに鉄の決意を示している。近年ルワンダ愛国戦線により主張されている不愉快な疑惑は、1994年の虐殺当時とその後に行われたとされる戦争犯罪に関するものである。ヒューマン・ライツ・ウォッチのアリソン・デス・フォージスが「ジェノサイドと戦争犯罪は異なるものだ」とカガメ大統領に伝えたところ、このルワンダ愛国戦線指導者は「彼ら(戦争犯罪の)犠牲者にも正義がもたらされるのだ」と答えた、とフォージスは述べた<ref>{{cite web|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/africa/7544267.stm|title=Rwanda report raises issue of motive|author=Martin Plaut|date=2008-08-05|publisher=BBC News|accessdate=2010-03-15}}</ref>。
</blockquote>
 
ルワンダにおける国連への信用失墜と、1990年から1994年までのフランスの不可解な政策、さらにフランスがフツを援助し虐殺に関与したという主張を受けて、フランス政府は[[ルワンダに関するフランスの議会委員会]]([[:en:French Parliamentary Commission on Rwanda]])を設立し、幾度かに分けて報告書を公開した<ref name="anf">N° 1271: ASSEMBLÉE NATIONALE: CONSTITUTION DU 4 OCTOBRE 1958: ONZIÈME LÉGISLATURE: Enregistré à la Présidence de l'Assemblée nationale le 15 décembre 1998: RAPPORT D'INFORMATION:DÉPOSÉ: en application de l'article 145 du Règlement: PAR LA MISSION D'INFORMATION(1) DE LA COMMISSION DE LA DÉFENSE NATIONALE ET DES FORCES ARMÉES ET DE LA COMMISSION DES AFFAIRES ÉTRANGÈRES, sur les opérations militaires menées par la France, d'autres pays et l'ONU au Rwanda entre 1990 et 1994. Online posting. National Assembly of France. December 15, 1998. [http://www.assemblee-nationale.fr/dossiers/rwanda/r1271.asp Proposition 1271]</ref>。
 
[[ファイル:Nicolas Sarkozy (2008).jpg|thumb|200px|right|[[ニコラ・サルコジ]]大統領はルワンダを訪問し、「フランスはジェノサイドの時に"誤り"を犯した」との認識を示した。]]
特に、フランスのNGO[[シュルヴィ]]([[:en:Survie]])の元代表[[フランソワ=グザヴィエ・ヴェルシャヴ]]([[:en:François-Xavier Verschave]])は、ジェノサイドの期間にフランス軍がフツを保護したことを批難し、議会委員会設立に大きな役割を果たした。同委員会が最終報告書を提出したのは1998年12月15日であった。この報告書では、フランス側と国連側双方の対応が曖昧かつ混乱したものであったことが実証されていた。また[[トルコ石作戦]]に関しては、介入時期が遅過ぎたことが悔やまれるが、この作戦を遂行したことは事態に対し何ら反応しなかった国連や、介入に対し反対したアメリカ政府やイギリス政府の対応よりもマシであったことに留意すべきとした。さらにルワンダ軍や民兵組織の武装解除に関しては、フランス軍の明瞭かつ体系的な活動が行われ、さまざまな問題を抱えてはいたものの部分的には成功したことを実証したが、一方で虐殺当時にルワンダ愛国戦線の将軍であったポール・カガメにとっては、この対応も十分に早いとは言えないものであったことも調査結果から明らかとなった。なおこの調査では、フランス軍がジェノサイドに参加した証拠や民兵に協力した証拠、あるいは生命の危機に瀕したルワンダの人々を故意に見捨てた証拠に関しては1つも見つからなかった。 加えてフランスは、ルワンダが必要としていたが国連とアメリカが拒否した援助任務、例えばジェノサイドを煽動するラジオ放送をできなくするなどの多様な任務を行い、少なくとも部分的には成功を収めていたことを実証した。なお、この報告書は最終的に、"フランス政府はルワンダ軍に関する判断ミスを犯していたが、これはジェノサイドが始まる以前の期間のみであった"とし、この他の更なる過ちとして、
* ジェノサイドの開始時点でその脅威の規模を図り損ねたこと。
* アメリカやその他の国による国際連合ルワンダ支援団の人員数の切り下げの自覚すること無しに、同組織へ過度の依存を行ったこと。
* 効果の無い外交。
があったとした。本報告書は最終的に、フランスはジェノサイドが始まった時点でその規模を抑えることのできる最大の外国勢力であったが、より多くのことをしなかったことが悔やまれた、と結論としている<ref name="anf"/>。
 
その後、2010年にはフランスの[[ニコラ・サルコジ]]大統領がルワンダを訪問し「フランスはジェノサイドの時に"誤り"を犯した」との認識を示したが、謝罪は行わなかった<ref>{{cite web|url=http://news.bbc.co.uk/2/low/africa/8535803.stm|title=France admits genocide 'mistakes|author=|date=12:58 GMT, Thursday, 25 February 2010 |publisher=BBC NEWS|accessdate=2010-03-15}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.afpbb.com/article/politics/2701868/5400227|title=サルコジ仏大統領、ルワンダ訪問 1994年の虐殺後初|author=|date=2010年02月25日|publisher=APF通信|accessdate=2010-03-15}}</ref>。これに対しカガメ大統領は、2カ国間の国交正常化と、新たな関係の構築への期待を述べた<ref>{{cite web|url=http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/news/CK2010022702000077.html|title=大虐殺『仏も責任』 サルコジ大統領 ルワンダ初訪問|author=|date=2010年2月27日|publisher=東京新聞|accessdate=2010-03-15}}</ref>。さらに2010年3月にフランス当局は両国大統領の会談を受けて、同国に亡命中の[[アカズ]]の一員でありルワンダ虐殺の責任者の1人、[[アガト・ハビャリマナ]]元ルワンダ大統領夫人を拘束し、尋問を行った<ref>{{cite web|url=http://www.asahi.com/international/update/0303/TKY201003030257.html|title=ルワンダ大虐殺、首謀容疑の元大統領夫人を拘束し尋問|author=|date=2010-03-03|publisher=朝日新聞|accessdate=2010-03-15}}</ref>。
 
== アメリカの動向 ==
[[File:Bill Clinton.jpg|thumb|200px|left|[[ルワンダ虐殺]]当時のアメリカ大統領であった[[ビル・クリントン]]。]]
アメリカ政府はジェノサイド以前からツチと提携を行っており、これに対しフツは、ルワンダ政権の敵対者に対するアメリカの潜在的な援助に懸念を増していった。ルワンダ出身のツチ難民でウガンダの[[国民抵抗軍]]将校であった[[ポール・カガメ]]は、1986年に[[ルワンダ愛国戦線]] (RPF) をツチの同志と共同で設立し、ルワンダ政権に対する攻撃を開始した後に、アメリカ合衆国カンザス州レブンワース郡の[[レブンワース砦]]へ招かれ、[[アメリカ陸軍指揮幕僚大学]]で軍事トレーニングを受けた。1990年10月にルワンダ愛国戦線がルワンダへの侵攻を開始したとき、カガメはレブンワース砦で学んでいる最中であった。侵攻開始からわずか二日後、カガメの親しい友人でルワンダ愛国戦線の共同設立者であった[[フレッド・ルウィゲマ]]([[:en:Fred Rwigema]])が側近により射殺されたため<ref>Gérard Prunier, ''Africa's World War'', Oxford University Press, 2009, p. 13-14</ref>、カガメは急遽アメリカからウガンダへ帰国してルワンダ愛国戦線の司令官となった<ref name="BBC">{{cite news|url=http://news.bbc.co.uk/1/hi/world/africa/689405.stm|title=Kagame: Quiet soldier who runs Rwanda|publisher=BBC|dateformat=dmy|accessdate=2010-03-15 | date=November 14, 2000}}</ref>。1997年8月16日の[[ワシントン・ポスト]]に掲載された南アフリカ支局長であるリン・デューク(Lynne Duke)の記事では、ルワンダ愛国戦線がアメリカ軍特殊部隊から戦闘訓練や対暴動活動の訓練などの指導を受ける関係が続けられていたことが示唆されていた<ref>{{cite web|url=http://www.encyclopedia.com/doc/1P2-738116.html|title=U.S. military role in Rwanda greater than disclosed|author=Lynn Duke|date=1997-08-16|publisher=Washington Post|accessdate=2010-03-15}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.wsws.org/articles/2003/sep2003/rwan-s13.shtml|title=Rwandan crisis deepens as Kagame begins seven-year term|author=Alex Lefebvre|date=September 13, 2003|publisher=International Committee of the Fourth International|accessdate=2010-03-15}}</ref>。
 
1993年まで、世界の平和維持活動を積極的に行っていたアメリカであったが、[[ソマリア内戦]]へ平和維持軍として軍事介入を試みた結果、[[モガディシュの戦い]]にてアメリカ兵18人が殺害され、その遺体が市内を引き回された映像が流されたため、アメリカの世論は撤退へと大きく傾き、その後のアメリカの平和維持活動へ大きな影響を与えることとなった。1994年1月には、[[アメリカ国家安全保障会議]]のメンバーであったリチャード・クラーク(Richard Clark)は、同年5月3日に成立することとなる大統領決定指令25(PDD-25)を、公式なアメリカの平和維持[[ドクトリン]](政策)として展開した。
 
その結果としてアメリカはルワンダ虐殺が行われていた期間にルワンダで軍を展開しなかった。[[アメリカ国家安全保障アーカイブ]]の報告書は「アメリカ政府は後述する5種類の手段を用いたことで、ジェノサイドに対するアメリカと世界各国の反応を遅らせることに貢献した。」と指摘する。その手段とは以下のようなものであった。
 
:# 国連に対し1994年4月に、国連部隊([[国際連合ルワンダ支援団]])の全面撤退を働きかけた。
:# 国務長官であった[[ウォーレン・クリストファー]]は5月21日まで"ジェノサイド"の語を公式に使用することを認めず、その後もアメリカ政府当局者が公然と"ジェノサイド"の語を使うようになるまでにはさらに3週間待たねばならなかった。
:# 官僚政治的な内部抗争により、ジェノサイドに対するアメリカの全般的な対応が遅くなった。
:# コスト面と国際法上の都合から殺害を煽る過激派によるラジオ放送の[[ジャミング]]を拒否した。
:# アメリカ政府は誰がジェノサイドを指揮しているか正確に知っており、実際に指導者らとジェノサイド行為の終了を促す話し合いを行ったが、具体的な行動を追求しなかった<ref>{{cite web|url=http://www.gwu.edu/~nsarchiv/NSAEBB/NSAEBB53/index.html|title=The U.S. and the genocide in Rwanda 1994|author=William Ferroggiaro|date=August 20, 2001|publisher=The George Washington University|accessdate=2010-03-15}}</ref>。
 
なお、アメリカが"ジェノサイド"の語の使用を頑なに拒んでいたのは、もしルワンダで進行中の事態が"ジェノサイド"であれば[[ジェノサイド条約]]の批准国として行動する必要が生じるためであった。6月半ば以降に"ジェノサイド"の語が使用できるようになったのは、フランス軍を中心とした[[トルコ石作戦]]が開始され、また虐殺も収まりつつあったことでアメリカが事態に対応する必要性が低下したためであるとの指摘もある<ref>饗場和彦「ルワンダにおける1994年のジェノサイド」『徳島大学社会科学研究』第19号 2006年1月 p67</ref>。
 
== ルワンダ愛国戦線の再侵攻と戦争終結宣言 ==
{{Main|ルワンダ紛争}}
{{See also|大湖沼難民危機}}
[[File:RPF Buergerkrieg Ruanda 1994.jpg|thumb|right|200px|[[ルワンダ愛国戦線]]の侵攻ルート。]]
アルーシャ協定によりキガリへ駐屯していた[[ルワンダ愛国戦線]]の大隊は、大統領の搭乗する飛行機の撃墜を受け、キガリからの脱出と北部に展開するルワンダ愛国戦線本隊との合流を目的とした軍事行動を即座に開始した<ref>Col. Scott R. Feil. "Could 4,999 Peacekeepers Have Saved 500,000 Rwandans?: Early Intervention Reconsidered", [http://isd.georgetown.edu/rwanda.htm ''ISD Report''][http://web.archive.org/web/20070413020828/http://isd.georgetown.edu/rwanda.htm Webarchive log]</ref>。また事件翌日の4月7日に、ルワンダ愛国戦線は"大統領機の撃墜は大統領警備隊によるものである"として全軍に対してキガリへの進軍を命じた<ref name=rikai293/>。その結果、ルワンダ政府軍とルワンダ愛国戦線による内戦と、ツチ過激派によるジェノサイドが7月初頭まで続くこととなった。そのため、海外の報道員にはジェノサイドが行われていることがすぐには分からず、当初の頃は内戦の激変期として説明されていた。そんな中で[[BBCニュース]]のキガリ特派員であった[[マーク・ドイル]]([[:en:Mark Doyle (journalist)]])は、1994年4月下旬点でこの入り組んだ事態の説明を行おうと試み、以下のような報道を行った。
 
<blockquote>ここで2つの戦争が行われていると解釈して頂かなくてはなりません。それは武力戦争とジェノサイド戦争です。この2つは関連しておりますが、一方で別個のものでもあります。武力戦争は通常通りの軍隊同士によるもので、ジェノサイド戦争は政府軍と政権を支持する市民の側に立った政府に関係する大量虐殺です<ref name=carleton>[http://www.carleton.ca/mediagenocide/documents/transcript/panel3/doyle.html Transcript of remarks by Mark Doyle] in Panel 3: International media coverage of the Genocide of the symposium ''Media and the Rwandan Genocide'' held at [[Carleton University]], March 13, 2004, [http://web.archive.org/web/20080220194240/http://www.carleton.ca/mediagenocide/documents/transcript/panel3/doyle.html Webarchive log]</ref>。</blockquote>
 
ルワンダ愛国戦線は1994年7月4日に首都キガリおよびブタレを制圧し、同月16日には政府軍の最終拠点であった[[ルヘンゲリ]]を制圧、その二日後の18日にカガメ司令官が戦争終結宣言を行った。これはハビャリマナ大統領の暗殺からおよそ100日後のことであった。
 
== 余波 ==
[[画像:Bodies of Rwandan refugees DF-ST-02-03035.jpg|thumb|right|200px|トラックにて運び出された難民キャンプの死亡者。]]
[[File:SETAF HISTORY 0004.JPEG|thumb|left|200px|ザイールのキャンプに給水支援を行う多国籍軍。]]
[[Image:Rwandan refugee camp in east Zaire.jpg|thumb|200px|1994年、[[ザイール]]における[[難民]]キャンプの写真。]]
虐殺に加担あるいは傍観した約200万のフツが、殺害や家への放火といったツチによる報復を恐れてルワンダ国外へ脱出し<ref>{{cite web|url=http://www.orsj.or.jp/~archive/pdf/a_s/1995_272.pdf|title=ルワンダ難民の消長 -難民発生の定量的分析-|author=斉藤司郎|date=|publisher=日本オペレーションズ・リサーチ学会|accessdate=2010-03-15}}</ref>、大部分が[[ザイール]]へ、一部が[[ブルンジ]]、[[タンザニア]]、[[ウガンダ]]で難民となった。具体的には、難民キャンプの劣悪な環境により、[[コレラ]]や[[赤痢]]といった伝染病が蔓延して数千人が死亡した<ref>{{PDFlink|[http://www.unhcr.org/publ/PUBL/3ebf9bb60.pdf Ch. 10: "The Rwandan genocide and its aftermath"]}} in ''State of the World's Refugees 2000'', [[国際連合難民高等弁務官事務所]]</ref>。アメリカは1994年の7月から9月にかけて、[[オペレーション・サポート・ホープ]]([[:en:Operation Support Hope]])として難民キャンプの状況改善を目的とした食料や水、生活必需品の空輸による援助や、空港整備などを行った<ref>{{cite web|url=http://www.globalsecurity.org/military/ops/support_hope.htm|title=Operation Support Hope|publisher=GlobalSecurity.org|date=2005-04-27 |accessdate=2010-03-15}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www2.odn.ne.jp/kamino/hi4.html|title=人道的介入の事例 : ルワンダ|author=上野友也|date=|publisher=上野友也研究室|accessdate=2010-03-15}}</ref>。また、1994年に難民キャンプが結成されると、その後すぐに200以上のNGOが現地で活動を行い、1996年までの期間に10億ドル以上が難民支援に支出された<ref>ロバート・ヤング ペルトン (著)、Robert Young Pelton (原著)、大地 舜 (翻訳)『世界の危険・紛争地帯体験ガイド』、講談社、1999年5月、p545。</ref>。
 
このルワンダ難民キャンプ支援には、日本の[[自衛隊]]が[[国際平和協力法]]に基づいて[[自衛隊ルワンダ難民救援派遣]]として派遣された。1994年9月、2度に渡るルワンダ難民支援のための調査団の派遣と[[緒方貞子]][[国連難民高等弁務官]]からの要請を受け、日本政府はルワンダ難民支援の実施計画と関連する法令を閣議決定し、翌月の10月2日から12月23日までザイール及び[[ケニア]]で活動を行った<ref name=nenhyo301>武内進一『現代アフリカの紛争を理解するために』、ジェトロ・アジア経済研究所、1998年3月、p301。[http://www.ide.go.jp/Japanese/Publish/Download/Report/pdf/report_1.pdf]</ref>。
 
なお、ザイールを含め各地の難民キャンプには旧ルワンダ政権の武装集団が紛れており、[[ルワンダ解放軍]](ALiR)を結成してルワンダ愛国戦線率いる現ルワンダ政府に対し攻撃を行ったため、ルワンダ政府は[[ローラン・カビラ]]率いる[[コンゴ・ザイール解放民主勢力連合]](AFDL)と手を結び、傘下のザイール東部に暮らすツチ系民族の[[バニャムレンゲ]]([[:en:Banyamulenge]])に軍事的指導を行った。1996年10月に[[ローラン・カビラ]]率いる[[コンゴ・ザイール解放民主勢力連合]]が叛乱を起こして[[第一次コンゴ戦争]]([[:en:First Congo War]])が勃発すると、ザイールの[[南キヴ州|南]][[北キヴ州]]などにある難民キャンプは、ルワンダ軍、ブルンジ軍、およびコンゴ・ザイール解放民主勢力連合の兵士らによる攻撃の対象となった。その翌月の11月にルワンダ政府が難民の帰国を認めたため、同月中に40万から70万もの難民がルワンダへ帰国した<ref>{{cite web|url=http://www.msf.or.jp/special/condition_critical/photo/photo_01.html|title=危機に陥ったコンゴ民主共和国 キブにおける戦争 1993年~2008年|author=|date=|publisher=国境なき医師団日本|accessdate=2010-03-15}}</ref>。さらに1996年12月の終わりには、タンザニア政府の立ち退き活動により50万を超える難民が帰国した。その後も旧ルワンダ政権側の流れを汲む様々なフツ過激派系の後継組織が2009年5月22日までコンゴ民主共和国東部に存在していた。
 
=== 政治の発展 ===
[[ルワンダ愛国戦線]]は1994年7月に軍事的勝利をおさめた後、ルワンダ虐殺以前に[[ジュベナール・ハビャリマナ]]大統領が設立した連立政権と同様の連立政権体制を構築した。挙国一致内閣(Broad Based Government of National Unity)と呼ばれるこの内閣の基本的な行動規範は、[[憲法]]、[[アルーシャ協定]]、各政党の政治的宣言を基礎に置いていた。旧政権与党であった[[開発国民革命運動]]は非合法化された。また、新たな政党の結成は2003年まで禁止された。さらに政府は民族、人種、宗教に基づく差別を禁止し、出身民族を示すIDカードの廃止を行ったほか、女性の遺産相続権限の許可や女性議員の比率増加を目的としたクウォーター制の導入といった女性の権利の拡大、国民の融和などを推進している<ref name=gaimusho/>。なお上記のクウォーター制導入により、ルワンダ政府は2010年3月時点で女性議員の割合が56%と世界で最も高いことが知られている<ref>{{cite web|url=http://mainichi.jp/select/world/news/20100307k0000m030036000c.html|title=女性議員:ルワンダ56%で世界1位、日本11%で97位|author=|date=2010-03-07|publisher=毎日新聞|accessdate=2010-03-15}}</ref>。
 
1998年3月、アメリカ大統領の[[ビル・クリントン]]はルワンダへを訪問し、同国の[[キガリ国際空港]]の滑走路へ集まった群衆に対し、「我々は今日、我々アメリカと世界各国が出来る限りのことをせず、また、発生した行為を抑えるための行動を十分に行わなかったという事実も認識した上でここへ訪れました。」と述べ<ref>Power, Samantha. "Bystanders to Genocide." Atlantic Monthly. Sept. 2001.<http://www.theatlantic.com/doc/200109/power-genocide>.</ref>、さらに虐殺当時のルワンダに対し適切な対応を行わなかった点に関して自身の失敗を認め、現在 "Clinton's apology"と呼ばれる謝罪を行った<ref>Kenneth J. Campbell, "Genocide and the global village", Palgrave Macmillan, 2001</ref>。もっとも、この謝罪はその後に発生した国際紛争や虐殺の抑制には何ら影響を与えなかったと言われるが<ref>{{cite web|url=http://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/column/i/47/index2.html|title=国が謝るとき 80年代になって謝罪するようになった理由|author=|date=|publisher=日経BP|accessdate=2010-03-15}}</ref>、ルワンダ国内ではジェノサイドの企てに対する国際社会からの強い叱責と受け止められ、同国民に肯定的な驚きを与えた<ref>フィリップ・ゴーレイヴィッチ 著 柳下毅一郎 訳『ジェノサイドの丘〈下〉 ルワンダ虐殺の隠された真実』WAVE出版、2003年6月、pp237-239。</ref>。
 
ルワンダは大規模な国際的援助を受け、政治改革を行った上で、外国人と地元投資者による投資の促進や、農業生産力の向上、国内民族の融和促進といった課題に取り組んでいる。2000年3月に[[パストゥール・ビジムング]]([[:en:Pasteur Bizimungu]])が大統領を辞職すると[[ポール・カガメ]]がルワンダ共和国大統領へ就任した。2001年3月にはルワンダ虐殺以後初となる秘密選挙形式の地方選挙が行われた<ref>{{cite web|url=http://interband.org/rwanda/seya.html|title=2001年ルワンダ選挙監視活動|author=|date=|publisher=INTERBAND|accessdate=2010-03-15}}</ref>。また、2003年8月には初の複数候補者による大統領選挙が、同年9月から10月にかけて上院・下院の議員選挙が行われ、結果として大統領選挙でカガメが当選し、議員選挙ではルワンダ愛国戦線が過半数を獲得した。その後、2008年9月にも下院議員選挙が行われ、ルワンダ愛国戦線が勝利を納めている<ref name=gaimusho>{{cite web|url=http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/RWANDA/data.html|title=各国・地域情勢 "ルワンダ共和国"|author=|date=|publisher=日本国外務省|accessdate=2010-03-15}}</ref>。現在は、大規模な難民の帰還による人口の急増や<ref name=nanminkoutou>{{cite web|url=http://www.unhcr.or.jp/info/pdf/Magazine_J72_05.pdf|title=難民情勢・UNHCRと日本 1990-1999|author=|date=|publisher=[[国連難民高等弁務官事務所]]|accessdate=2010-03-15}}</ref>、フツ過激派武装勢力によるゲリラ攻撃への対処、および近隣のコンゴ民主共和国で1996年から2003年にかけて行われた[[第一次コンゴ戦争]]([[:en:First Congo Wars]])および[[第二次コンゴ戦争]]([[:en:Second Congo Wars]])とその後の余波への対処などに取り組んでいる<ref name=oosakapanfu>{{cite web|url=http://www.glocol.osaka-u.ac.jp/research/090417sasshi.pdf|title="コンゴ民主共和国 無視され続ける世界最大の紛争", pp10-11|author=|date=|publisher=大阪大学グローバルコラボレーションセンター|accessdate=2010-03-15}}</ref>。
 
=== 経済発展と社会発展 ===
[[Image:Rwanda-demography.png|thumb||left|200px|1961年から2003年にかけてのルワンダにおける人口動態。(出典は[[国際連合食糧農業機関]]である。)]]
[[画像:Kigali orphans.jpg|thumb|right|200px|首都[[キガリ]]に暮らす孤児。]]
ルワンダに樹立された新政権が直面した問題には、近隣諸国に暮らす200万人以上の難民の帰還<ref name=nanminkoutou/>、国内の北部地域や南西部地域で行われている旧ルワンダ政府軍や[[インテラハムウェ]]など民兵組織の戦闘員と[[ルワンダ国防軍]]間の停戦<ref name=oosakapanfu/>、中長期的な開発計画の迅速な立案などがあった。また、ルワンダ虐殺下の犯罪行為により刑務所へ収容される人数の増大も将来的に差し迫った課題であり、1997年末の時点で収容者は12万5千人にまで達したことから<ref>フィリップ・ゴーレイヴィッチ 著 柳下毅一郎 訳『ジェノサイドの丘〈下〉 ルワンダ虐殺の隠された真実』WAVE出版、2003年6月、p95。</ref>、刑務所内の劣悪な環境や刑務所の運用コストが問題となった。
 
さらにルワンダ虐殺下における[[強姦]]被害者らは、社会的孤立(強姦に遭うことは社会的汚名とされるため、強姦された妻から夫が去っていったり、強姦された娘は結婚の対象外とされたりした)や、望まぬ妊娠や出産(一部の女性は自身で堕胎を行った)、[[梅毒]]、[[淋病]]、[[HIV]]/[[AIDS]]といった[[性行為感染症]]への感染といった、長期に渡る甚大な被害を受けた<ref name="http"/>。ルワンダ虐殺問題の特別報告官は、未成年の少女を含む25万から50万の女性が強姦され、2000人から5000人が妊娠させられたと推定している<ref name="de Brouwer 2005 11"/>([[ルワンダにおけるHIV/AIDS]]も参照のこと)。ルワンダは家父長制社会であり、子供の民族区分は父親から引き継がれることから、ルワンダ虐殺における強姦被害者の多くはツチの父親を持つ女性であった<ref name="http"/>。
ルワンダの再建にあたり大きな問題となっているのは、強姦や殺人、拷問を行った者と同じ村で、時には隣人として暮らすという事実である。個人個人が虐殺に関与したにせよしなかったにせよ、ジェノサイド直後のツチにとってフツを信頼することは非常に困難であった。
 
=== ルワンダ国際戦犯法廷 ===
[[File:ICTR in Kigali.jpg|thumb|right|200px|ルワンダ国際戦犯法廷の建物]]
{{Main|ルワンダ国際戦犯法廷}}
{{see|ガチャチャ}}
[[Image:Rwanda genocide wanted poster 2-20-03.jpg|thumb|left|[[ルワンダ国際戦犯法廷]]による、[[ジェノサイド]]で中心的な役割を果たした人物の[[指名手配]]ポスター。]]
1994年11月8日、国連安保理決議第955号によりジェノサイドの責任者とされる政府や軍の要人を裁くための国際法廷が設置が決定され<ref name=336018a>{{cite web|url=http://www.hrw.org/reports/1999/rwanda/Geno15-8-05.htm#P1081_336018|title="Justice and Responsibility" chapter in "Leave None to Tell the Story: Genocide in Rwanda"|author=|date=1999|publisher=Human Rights Watch|accessdate=2010-03-15}}</ref>、1995年2月22日の国連安保理決議第977号により法廷は[[タンザニア]]の[[アルーシャ]]に設置されることが決定された<ref>{{cite web|url=http://www.ictr.org/ENGLISH/geninfo/index.htm|title=General Information|author=|date=|publisher=International Criminal Tribunal for Rwanda|accessdate=2010-03-15}}</ref>。その後、実際の運用が始まったのは1996年5月30日のことで、[[公立技術学校の虐殺]]などに関与したインテラハムウェ全国委員会第二副議長の[[ジョルジュ・ルタガンダ]]([[:en:Georges Rutaganda]])がジェノサイドおよび[[人道に対する罪]]により起訴されたのが第一号となった<ref>朝日新聞 1996年05月31日 朝刊 1外 「ルワンダ虐殺の国際法廷開く タンザニア」</ref>。また同年8月7日にはルワンダ国内でも虐殺に関与した現地指導者や一般住民を裁くための法律が成立し、1990年1月1日から1994年12月31日までの行為が対象とすることが決定された<ref name=336018a/><ref name=nenhyo301>武内進一『現代アフリカの紛争を理解するために』、ジェトロ・アジア経済研究所、1998年3月、p301。[http://www.ide.go.jp/Japanese/Publish/Download/Report/pdf/report_1.pdf]</ref>。その後、コンゴ民主共和国からの大量の難民の帰還を受け、1996年12月からルワンダ虐殺の裁判を手探り状態で開始した<ref name=nenhyo301/>。
 
さらに2001年には、政府は9万人を超える留置者へ対応するため、[[ガチャチャ]]([[:en:Gacaca court]])として知られるルワンダの一般住民による司法制度を開始した。このガチャチャは、膨大な数の囚人数を減らすこと、民族の融和を国際社会に強調すること、4つの犯罪区分のうち最も重罪となる虐殺扇動者(カテゴリ 1)を除く犯罪者(カテゴリ 2, 3, 4)を大幅に減刑し、早期に釈放することで政権支持基盤を確保する目的があるという<ref>武内進一『「正義と和解の実験--ルワンダにおけるガチャチャの試み」』、『アフリカレポート』第34号、pp.19。[http://www.ide.go.jp/English/Researchers/pdf/takeuchi_shinichi01_4_2002a.pdf]</ref><ref>{{cite web|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/africa/3557753.stm|title=Rwanda still searching for justice|author=Robert Walker|date=March 30, 2004|publisher=BBC News|accessdate=2010-03-15}}</ref>。
 
かつては国連とルワンダとの間で死刑の是非をめぐって緊張関係を招いたが、2007年にルワンダ政府が死刑廃止を決定したことでこの問題は大筋で解決した<ref>{{cite web|url=http://edition.cnn.com/2007/WORLD/africa/07/27/rwanda.execution.reut/index.html|title=Rwanda's ban on executions helps bring genocide justice|author=|date=July 27, 2007|publisher=Cable News Network.|accessdate=2010-03-15}}7</ref>。しかしその一方で、虐殺生存者の多くは死刑の廃止に反対していることが明らかとなっている<ref>{{cite web|url=http://ipsnews.net/news.asp?idnews=38821|title=DEATH PENALTY-RWANDA: Abolition Spurs Quest for Justice|author=|date=2007.08.|publisher=IPS NEWS|accessdate=2010-03-15}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.news.janjan.jp/world/0708/0708251305/1.php|title=ルワンダ:正義の追及を促進する死刑廃止(全訳記事)|author=|date=2007-08-25|publisher=JANJAN|accessdate=2010-03-15}}</ref>。
 
なお、アルーシャ法廷では開始から10年間で判決に至ったのはわずか20人に過ぎない。2003年には、2008年末までに一審を終わらせ、全裁判を2010年までに完了するため、[[ハッサン・ブバカール・ジャロウ]]([[:en:Hassan Bubacar Jallow]])がルワンダ国際刑事裁判所の主席検察官として4年間の任命を受け<ref>{{cite web|url=http://www.issue.net/~sun/sc/scres2003.html|title=安保理決議 2003年|author=|date=|publisher=Issue.net|accessdate=2010-03-15}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.un.org/News/Press/docs/2003/sc7864.doc.htm|title=SECURITY COUNCIL APPOINTS PROSECUTORS FOR INTERNATIONAL TRIBUNALS FOR FORMER YUGOSLAVIA, RWANDA Resolutions 1504, 1505 Adopted Unanimously|author=|date=|publisher=United Nations|accessdate=2010-03-15}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.un.org/News/Press/docs/2003/sc7858.doc.htm|title=SECURITY COUNCIL SPLITS PROSECUTORIAL DUTIES FOR RWANDA, YUGOSLAVIA TRIBUNALS, UNANIMOUSLY ADOPTING RESOLUTION 1503 (2003)|author=|date=|publisher=United Nations|accessdate=2010-03-15}}</ref>、2007年には2010年まで任期が延長された<ref>{{cite web|url=http://www.un.org/News/Press/docs/2007/sc9114.doc.htm|title=Security Council reappoints Rwanda tribunal chief prosecutor For four-year term|author=United Nations|date=|publisher=|accessdate=2010-03-15}}[ ]</ref>。
 
2008年12月18日の木曜日、国防省官房長であった[[テオネスト・バゴソラ]]([[:en:Theoneste Bagosora]])が[[人道に対する罪]]で有罪となり、国連の裁判官である[[エリック・モーセ]]([[:en:Erik Møse]])により無期懲役の判決を受けた<ref name="apbagosora">{{cite web|url=http://www.afpbb.com/article/disaster-accidents-crime/crime/2551266/3621430|title=ルワンダ大虐殺の中心人物に終身刑、国際犯罪法廷|author=APF通信|date=2008年12月18日|publisher=|accessdate=2010-03-15}}</ref>。同法廷はさらに、1994年4月7日に暗殺された[[アガト・ウィリンジイマナ]]首相およびベルギーの平和維持部隊員10人の死は、バゴソラに責任があることを認定した。
 
=== メディアと大衆文化 ===
[[画像:Dalliare.jpg|thumb|left|200px|2007年の映画、"Shake Hands with the Devil"の撮影風景。]]
[[File:Paul Rusesabagina1.jpg|thumb|right|200px|自身の勤務するホテルに避難民を匿って命を救った[[ポール・ルセサバギナ]]。]]
[[Image:MilleCollines.jpg|thumb|right|200px|[[オテル・デ・ミル・コリン]]の正面口。]]
{{See also|ルワンダ虐殺の関連映画}}
ルワンダの専門家であり、1994年のルワンダ虐殺をジェノサイドとして最も早くに断言した[[アリソン・デス・フォージス]]は、1999年にルワンダ虐殺の報告書として『Leave None to Tell the Story: Genocide in Rwanda』を出版した<ref>{{cite web|url=http://www.nytimes.com/2009/02/14/nyregion/14desforges.html?_r=1|title=Alison Des Forges, 66, Human Rights Advocate, Dies|author=SEWELL CHAN and DENNIS HEVESI|date=February 13, 2009 |publisher=The New York Times|accessdate=2010-03-15}}</ref>。なお、同報告書の内容は[[ヒューマン・ライツ・ウォッチ]]のホームページ[http://www.hrw.org/legacy/reports/1999/rwanda/]にて閲覧可能である。また、国際連合ルワンダ支援団司令官であり、最も著名なジェノサイドの目撃者となった[[ロメオ・ダレール]]将軍は、2003年に『Shake Hands with the Devil: The Failure of Humanity in Rwanda』を共著で発行し、その中で自身の体験した[[うつ病]]や[[心的外傷後ストレス障害|PTSD]]について記述した<ref>{{cite web|url=http://www.cmaj.ca/cgi/content/full/168/9/1164|title=Camouflage and exposure|author=|date=April 29, 2003; 168 (9)|publisher=Canadian Medical Association Journal|accessdate=2010-03-15}}</ref>。さらに、[[国境なき医師団]]代表者の1人でありルワンダ虐殺を体験した[[ジェームズ・オルビンスキー]]([[:en:James Orbinski]])は"An Imperfect Offering: Humanitarian Action in the Twenty-first Century"を執筆した。
 
映画評論家から絶賛を受け、[[2004年の映画|2004年度]]の[[アカデミー賞]]や[[ゴールデングローブ賞]]にノミネートされた[[ホテル・ルワンダ]]は、[[キガリ]]のホテル[[オテル・デ・ミル・コリン]]の副総支配人であった[[ポール・ルセサバギナ]]が、一千人以上の避難民をホテルに匿い命を救ったという体験に基づいた物語であり<ref>{{cite web|url=http://www.unitedartists.com/hotelrwanda/main.html|title='Hotel Rwanda' Official movie site|author=|date=|publisher=United Artists|accessdate=2010-03-15}}</ref>、この作品は[[アメリカ映画協会]]による[[感動の映画ベスト100]]の第90位にランクインした。なお、2006年にはルセサバギナの自伝となる『An Ordinary Man』が発行された。また、2006年には、ジェノサイドの生き残りである[[イマキュレー・イリバギザ]]([[:en:Immaculée Ilibagiza]])が、自身の体験をまとめた手記、''Left to Tell: Discovering God Amidst the Rwandan Holocaust'' (邦題:生かされて。)を刊行した。この本では、イリバギザが牧師の家の狭く湿ったトイレに他の7人の女性とともに隠れ、91日間に渡る虐殺の日々を奇跡的に生き抜いた様が描かれている。
 
[[アリソン・デス・フォージス]]はルワンダ虐殺から11年目となる2005年、ルワンダに関して扱った2本の映画に関して「50万人を超えるツチが命を奪われた恐怖への理解を大きく進めた」と述べた<ref name="idrc.ca"/>。また、2007年にメディア・フォーラム「ポリス」のディレクターとして知られるチャーリー・ベケット(Charlie Beckett)は、「どれだけの人が映画"ホテル・ルワンダ"を見たのだろうか? 現在では大抵の人々がルワンダと関係することは皮肉なことである」と評した<ref>{{cite web|url=http://www.polismedia.org/rwandatranscript.aspx|title=The Media and the Rwanda Genocide|author=Charlie Beckett|date=2007|publisher=|accessdate=2010-03-15}}</ref>。
=== 発端 ===
[[1993年]]、[[ブルンジ]]においてフツの[[メルシオル・ンダダイエ]]が大統領に就任したがツチが主流である国軍の一部が反発し、ンダダイエら閣僚を暗殺した([[ブルンジ内戦]])。反乱軍は国軍により鎮圧され、後継にフツの[[シプリアン・ンタリャミラ]]が就任した。2ヵ月後、[[タンザニア]]の[[ダルエスサラーム]]で開催されたブルンジ周辺国会議の終了後にルワンダ政府専用機にハビャリマナと同乗し帰路に着いたが、途中で対空ミサイル攻撃を受けて墜落、両者とも死亡した。フツ族の大統領が相次いで暗殺されたことをきっかけに、[[インテラハムウェ]]は反ツチの抗議デモを開催した。抗議活動はルワンダ全土に拡大し、ツチ住民への襲撃が始まった。
 
[[パンク・ロック]]のバンドである[[ランシド]]が2000年に発表したアルバム([[:en:Rancid (2000 album)]])収録曲''Rwanda'' は、ルワンダ虐殺を題材としている。
=== 大量虐殺 ===
{{see also|ニャルブイェ大虐殺}}
フツ住民の暴徒化により国内は無法地帯となり、ツチ住民だけでなくフツ系の対ツチ穏健派政党の支持者も殺害された。約3ヶ月間で80万人~100万人が殺害されたといわれる。
 
=== 内戦修正主義へ終焉批判 ===
994年のルワンダ大虐殺における事実関係については、歴史学的論争の争点となっているが<ref>Letter by Gasana Ndoba (President de La Commission Nationale des Droits de L'Homme du Rwanda). Conference Mondiale sur Le Racisme, La Discrimation Raciale, La Xenophobie et L'Intolerance qui y est associée. Durban, South Africa, 31 August-7 September 2001. [http://www.un.org/WCAR/statements/rwanda_hrF.htm Online posting.]</ref>、否定的見解を示す論者はしばしば[[否認主義]]として批難される<ref>N° 300 ASSEMBLÉE NATIONALE: CONSTITUTION DU 4 OCTOBRE 1958: DOUZIÈME LÉGISLATURE: Enregistré à la Présidence de l'Assemblée nationale le 15 octobre 2002. Online posting. National Assembly of France. [http://www.assemblee-nationale.fr/12/propositions/pion0300.asp Proposition 300]</ref>。フツに対するカウンター・ジェノサイド(counter-genocide)に従事したツチを批難する内容を持つ"ダブル・ジェノサイド"(double genocides)論<ref>Jean-Paul Gouteux. "Mémoire et révisionnisme du génocide rwandais en France: Racines politiques, impact médiatique." Online posting. [http://www.amnistia.net/news/articles/negrwand/negrwand.htm Amnistia.net] February 12, 2004.</ref>は、2005年にフランス人ジャーナリストの[[ピエール・ぺアン]]([[:en:Pierre Péan]])により出版された''Black Furies, White Liars''内で提唱され議論を呼んだ。これに対し、ぺアンの書籍内で"親ツチ派圧力団体"の活発な会員として描かれたジャン=ピエール・クレティエン(Jean-Pierre Chrétien)は、"驚くべき歴史修正主義者の情熱"としてぺアンを批判している<ref>"Point de Vue: Un pamphlet teinté d'africanisme colonial." ''[http://www.lemonde.fr/cgi-bin/ACHATS/acheter.cgi?offre=ARCHIVES&type_item=ART_ARCH_30J&objet_id=926101 Le Monde]'' December 9, 2005. Qtd. by Thierry Perret in "Les dossiers de presse : Afrique-France: Rwanda/« l’affaire » Péan." Online posting. [http://www.rfi.fr/fichiers/MFI/PolitiqueDiplomatie/1639.asp RFI Service Pro] December 22, 2005. Chrétien's "Point de Vue" posted online in [http://www.obsac.com/OBSV8-0512Peanrevisionist.html ''Observatoire de l'Afrique centrale'' 8 (December 2005)].</ref>。
RPFはこの状況に際して「ツチ住民の保護」を目的に政府軍への攻撃を拡大、全土を制圧した。ツチ虐殺の復讐を恐れたフツ住民が難民化し、周辺国へ逃亡した。
 
ルワンダ虐殺に関する修正主義者として批難された人物としては、カナダ人ジャーナリストの[[ロビン・フィルポット]]([[:en:Robin Philpot]])が知られている<ref>{{cite web|url=http://www.genocidewatch.org/images/Rwanda-13-Mar-07-First_the_Deed,_Then_the_Denial.pdf|title=Rwanda's Genocide: First the Deed, Then the Denial|author=Gerald Caplan|date=13 March 2007|publisher=|accessdate=2010-03-15}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.hlrecord.org/opinion/release-of-rwanda-s-mastermind-of-death-promotes-genocide-denial-1.951557|title=Release of Rwanda's mastermind of death promotes genocide denial|author=|date=4 December 2009|publisher=Harvard Law Record|accessdate=2010-03-15}}</ref>。フィルポットはルワンダ虐殺に関する権威として知られる[[ジェラルド・キャプラン]]([[:en:Gerald Caplan]])により、2007年に[[グローブ・アンド・メール]]紙の記事で「1994年に多数の人々が両陣営によって殺害されたことを以て、ジェノサイドを実行した者とその対象となったものが道徳的に等しい」と評された。キャプランはさらに「旧ルワンダ軍とフツ過激派民兵による、100万人の無防備なツチに対する一方的な謀略ではなかった」とするフィルポットの主張を批難し、「フィルポット氏は、主張が証拠と完全に矛盾していることが明らかになって以降、真実を否定する揺るぎない決意により、もっぱら噂や推測から構成される支離滅裂で奇妙な主張を量産している。」と述べている。
== 沿革 ==
{{節stub}}
 
== 関連項目 ==
{{Commons category}}
{{Commonscat|Rwandan Genocide}}
{{wikiversity}}
* [[ルワンダ紛争]]
* [[ホロコースト]]
* [[ルワンダ国際戦犯法廷]]
* [[指揮官の責任]]([[:en:Command responsibility]])
* [[ルワンダに関するフランスの議会委員会]]([[:en:French Parliamentary Commission on Rwanda]])
* [[戦争および災害による死亡者数の一覧]]([[:en:List of wars and disasters by death toll]])
* [[ルワンダの宗教]]([[:en:Religion in Rwanda]])
* [[キベホの聖母]]([[:en:Our Lady of Kibeho]])
* [[モガディシュ・ライン]]([[:en:Mogadishu Line]])
 
== 参考文献 ==
=== 英語資料 ===
[[ルワンダ虐殺の参考文献]]([[:en:Bibliography of the Rwandan Genocide]])を参照のこと。
 
=== 日本語資料 ===
* 武内進一『現代アフリカの紛争と国家 ポストコロニアル家産制国家とルワンダ・ジェノサイド』、明石書店、2009年2月。
* 武内進一 (編集) 『現代アフリカの紛争 —歴史と主体— 』、日本貿易振興会アジア経済研究所、2000年1月。
* フィリップ・ゴーレイヴィッチ 著 柳下毅一郎 訳『ジェノサイドの丘〈上〉 ルワンダ虐殺の隠された真実』WAVE出版、2003年6月。
* フィリップ・ゴーレイヴィッチ 著 柳下毅一郎 訳『ジェノサイドの丘〈下〉 ルワンダ虐殺の隠された真実』WAVE出版、2003年6月。
* 松村高夫(著)、矢野久(著)『大量虐殺の社会史―戦慄の20世紀 (MINERVA西洋史ライブラリー) 』、ミネルヴァ書房、2007年12月。
* 武内進一『現代アフリカの紛争を理解するために』、ジェトロ・アジア経済研究所、1998年3月。[http://www.ide.go.jp/Japanese/Publish/Download/Report/pdf/report_1.pdf]
* 武内進一『ハビャリマナ体制について考察するための資料』、佐藤章編『アフリカの「個人支配」再考-共同研究会中間報告』アジア経済研究所、pp.181-255.2006年。[http://www.ide-jetro.jp/Japanese/Publish/Download/Report/pdf/2005_04_10_07.pdf]
* 武内進一「ルワンダにおける二つの紛争‐ジェノサイドはいかに可能となったのか」『社会科学研究』第55 巻第5・6 合併号、2004 年、pp.101-129。[http://ir.ide.go.jp/dspace/bitstream/2344/525/1/ARRIDE_G2007031602_takeuchi.pdf]
* 武内進一『難民帰還と土地問題――内戦後ルワンダの農村変容――』、ジェトロ・アジア経済研究所、2003年。[http://www.ide.go.jp/English/Researchers/pdf/takeuchi_shinichi01_3_2003c.pdf]
* 武内進一『アカズ人名録── ハビャリマナ体制とルワンダの虐殺に関する資料──』、ジェトロ・アジア経済研究所、2007年9月。[http://www.ide.go.jp/Japanese/Publish/Periodicals/Ajia/pdf/2007_09/04shiryo.pdf]
* 武内進一『Scott Straus, The Order of Genocide: Race, Power, and War in Rwanda』、ジェトロ・アジア経済研究所、アジア経済 第49巻 第1号 2008年1月[http://www.ide.go.jp/Japanese/Publish/Periodicals/Ajia/pdf/200801/10takeuchi.pdf]
* 武内進一『アフリカ大湖地域における難民問題の位相と 「人間の安全保障」』、望月克哉 編『アフリカにおける「人間の安全保障」の射程 —研究会中間成果報告—』アジア経済研究所、pp.63-93.2003年。[http://www.ide.go.jp/Japanese/Publish/Download/Report/pdf/2003_04_14_04.pdf]
* 武内進一『「正義と和解の実験--ルワンダにおけるガチャチャの試み」』、『アフリカレポート』第34号、pp.17-21。[http://www.ide.go.jp/English/Researchers/pdf/takeuchi_shinichi01_4_2002a.pdf]
* 饗場和彦『ルワンダにおける1994年のジェノサイド』、『徳島大学社会科学研究』第19号、2006年1月[http://web.ias.tokushima-u.ac.jp/bulletin/pdf/soc-19-3.pdf]
* 大庭弘継『ルワンダ・ジェノサイドにおける責任のアポリア : PKO指揮官の責任と「国際社会の責任」の課題』、九州大学紀要『政治研究』、2009年3月。[https://qir.kyushu-u.ac.jp/dspace/bitstream/2324/16473/1/p057.pdf]
* 日本記者クラブ記者会見『ルワンダからのメッセージ パスツール・ビジムング ルワンダ大統領』[http://www.jnpc.or.jp/cgi-bin/pb/pdf.php?id=367]
 
=== 日本語関連書籍 ===
* 吉岡逸夫『漂泊のルワンダ』、牧野出版、2006年3月。
* レヴェリアン・ルラングァ、山田美明(翻訳)『ルワンダ大虐殺 ~世界で一番悲しい光景を見た青年の手記~』、晋遊舎、2006年12月。
* アニック カイテジ(著)、浅田仁子(翻訳)『山刀で切り裂かれて ルワンダ大虐殺で地獄を見た少女の告白』、アスコム、2007年9月。
 
== 映画関連の文献 ==
=== 洋画 ===
[[ルワンダ虐殺の関連映画]]([[:en:Filmography of the Rwandan Genocide]])を参照のこと。
 
=== 日本語に翻訳されたもの ===
* [[ホテル・ルワンダ]]
* [[ルワンダの涙]]
* [[ムランビ虐殺記念館]]
 
==脚注==
{{Link FA|fi}}
{{Link FAreflist|de2}}
 
== 外部リンク ==
* [http://www.throughmyeyes.org.uk/server/show/nav.23319 Through My Eyes Website] Imperial War Museum - Online Exhibition
* [http://web.amnesty.org/library/eng-rwa/index Amnesty International Online Documentation Archive: Rwanda][http://web.archive.org/web/20070202011324/http://web.amnesty.org/library/eng-rwa/index webarchive log]
* [http://www.VoicesOfRwanda.org Voices of Rwanda: The Rwanda Testimony Film Project] A populous oral history archive dedicated to filming video testimonies of Rwandans
* [http://hrw.org/backgrounder/africa/rwanda0406/ Rwandan Genocide Background] from the Human Rights Watch
* [http://www.ushmm.org/conscience/alert/rwanda/ Rwandan Overview. Committee on Conscience: Rwandan Genocide]. United States Holocaust Memorial Museum
* [http://www.ictr.org/ United Nations International Criminal Tribunal for Rwanda].
* [http://www.hrw.org/legacy/reports/1999/rwanda/ Leave None to Tell the Story: Genocide in Rwanda]
* [http://www2.odn.ne.jp/kamino/hi4.html 上野友也研究室 "人道的介入の事例 : ルワンダ"]
* [http://www.rwandaembassy-japan.org/jp/modules/tinyd/index.php?id=22&tmid=48 ルワンダ共和国大使館 "ルワンダの歴史"]
* [http://www.unhcr.or.jp/ref_unhcr/world/africa/rwanda2005.html 国連難民高等弁務官事務所 "アフリカ難民の現状 ルワンダ"]
* [http://www.amnesty.or.jp/modules/wfsection/article.php?articleid=144 アムネスティ・インターナショナル日本 "ルワンダの大虐殺後の国際社会の動きは? ~「特別法廷」から常設の「国際刑事裁判所」へ~"]
 
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[[Category:ルワンダの歴史虐殺|*]]
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[[ar:الإبادة الجماعية في رواندا]]
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[[de:Völkermord in Ruanda]]
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[[ta:ருவாண்டா இனப்படுகொலை]]