「水沢市」の版間の差分

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約4万年~3万3000年前には、斜軸[[尖頭器]]を出土した柳沢舘遺跡などが存在し、[[旧石器時代]]から人が住んでいたと考えられる。
 
今から1200年前、[[日高見国]]胆沢は[[続日本紀]]に 「水陸万傾の地」と記されるほど、平和で豊かな土地であった。このころは、たび重なる[[朝廷]]側の攻略を受け、この地のリーダーであった[[アテルイ]]率いる[[蝦夷]]群は、徹底抗戦し朝廷軍を撃退した([[巣伏の戦い]])。しかし、延暦21年、[[坂上田村麻呂]]の戦略と戦いにより疲弊のため、ついにアテルイは都に送られて斬首された。この戦いの締めくくりとして、坂上田村麻呂はこの地に[[胆沢城]]を造営し、150年にわたる[[陸奥国|陸奥]]北半の経営拠点とした。これによって胆沢地方をはじめとするこの地方は[[律令]]体制下に組み込まれることになり、[[胆沢郡]]が新たに設置され、江刺郡・和賀郡・稗貫郡・紫波郡・岩手郡と共に[[奥六郡]]と称された。その後、[[安倍氏 (奥州)|安倍氏]]がこの六郡を支配する。[[前九年の役]]では[[水沢城]]付近に[[源頼義]]が陣を張ったとの伝承も残り軍事的にも拠点となった。
 
中世には[[衣川]]の安倍氏、[[平泉]]の[[奥州藤原氏]]滅亡後、[[葛西氏]]が奥州総奉行となり胆沢には重臣であったとされる[[佐々木氏]]や[[柏山氏]]が治める事になる。柏山氏は半独立した存在だったが、[[豊臣秀吉]]の[[小田原の陣]]に呼応せず葛西氏同様に[[奥州仕置]]により改易され、子息が[[南部氏]]に仕えることになる。