「ルワンダ虐殺」の版間の差分
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[[File:Rw-map.png|thumb|right|200px|1962年独立以降のルワンダの地図。]]
第二次大戦後、アフリカの独立機運が高まってくると、ルアンダ・ウルンディでも盛んに独立運動が行われるようになった。宗主国であったベルギーは国際的な流れを受けて多数派のフツを支持するようになり、ベルギー統治時代の初期にはハム仮説を最も強固に支持していたカトリック教会<ref name="竹内126">『現代アフリカの紛争と国家』p.126。</ref>もまた、公式にフツの支持を表明した<ref>饗場和彦「ルワンダにおける1994年のジェノサイド」『徳島大学社会科学研究』第19号 2006年1月 pp40-41</ref>。これらの後押しもあり、後にルワンダ大統領となる[[グレゴワール・カイバンダ]]やジュベナール・ハビャリマナらを含む9人のフツが、ツチによる政治政治の独占的状態を批判した[[バフツ宣言]]と呼ばれるマニュフェストを1957年に発表し、その2年後の1959年には、バフツ宣言を行ったメンバーが中心となって[[パルメフツ]]が結成された。
そんな中、1959年の11月1日の万聖節の日にパルメフツの指導者の1人であった[[ドミニク・ンボニュムトゥワ]]がツチの若者に襲撃された。その後、ンボニュムトゥワが殺害されたとの誤報が流れ、これに激怒したフツがツチの指導者を殺害し、ツチの家に対する放火が全国的に行われた。そしてツチ側も報復としてフツ指導者を殺害する…という形で国内に動乱が広がっていった<ref>武内進一『現代アフリカの紛争を理解するために』、ジェトロ・アジア経済研究所、1998年3月、p276。[http://www.ide.go.jp/Japanese/Publish/Download/Report/pdf/report_1.pdf]</ref>。この際、ベルギーの弁務官であったロジスト大佐はフツのために行動することを表明し、フツを利するために行動したことが知られている<ref>『現代アフリカの紛争と国家』pp.174-175。</ref>。
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[[File:Ntrama Church Altar.jpg|thumb|right|200px|ントラマ教会(Ntrama Church)では、5000人もの避難民が、手榴弾で、マチェーテで、銃で、あるいは生きたまま焼かれて虐殺された。聖堂には現在も毛布や子供の靴、犠牲者の遺骨の一部が散らばり、祭壇には頭蓋骨が残されている。]]
{{Main|ルワンダの宗教}}
ルワンダ虐殺がジェノサイドへと至った動機としては、宗教対立などの要因はさほど無かったとされる。しかしながら上でも述べたように、ルワンダにおいてローマカトリック教会はツチとフツの対立形成に大きな役割を果たした。19世紀末から第二次政界大戦頃の植民地時代において、カトリック教会はハム仮説に基づくツチの優位性を
[[ヒューマン・ライツ・ウオッチ]]は、ルワンダの宗教的権威者、特にローマカトリックの聖職者は、ジェノサイド行為に対する批難を怠ったと報告しており<ref>[http://www.hrw.org/reports/1999/rwanda/Geno4-7-03.htm#P893_245534 Rwandan Genocide: The Clergy] Human Rights Watch</ref>、ローマカトリック教会は「ルワンダでは大量虐殺が行われたが、これら虐殺行為への参加に関して教会は許可を与えていない」と主張している<ref name="wf"/>。
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