「ベアトリチェ・シフィドニツカ」の版間の差分

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[[ファイル:Beatrix of Silesia-Glogau.jpg|thumb|200px|ドイツ王妃ベアトリチェの印璽]]
'''ベアトリチェ・シフィドニツカ'''([[ポーランド語]]:Beatrycze Świdnicka、[[1290年]] - [[1322年]][[8月25日]])は、[[神聖ローマ皇帝]][[ルートヴィヒ4世 (神聖ローマ皇帝)|ルートヴィヒ4世]]の最初の妃。[[ローマ王|ドイツ王]]およ[[バイエルン|バイエルン公]]妃の称号を有した。[[ヤヴォル公国|ヤヴォル=シフィドニツァ]]公[[ボルコ1世スロヴィ|ボルコ1世]]の次女、母は[[ブランデンブルク統治者の一覧|ブランデンブルク=ザルツヴェデル辺境伯]][[オットー5世 (ブランデンブルク=ザルツヴェデル辺境伯)|オットー5世]]の娘[[ベアトリクス・フォン・ブランデンブルク|ベアトリクス]]。ドイツでは'''ベアトリクス・フォン・シュヴァイトニツ'''([[ドイツ語]]:Beatrix von Schweidnitz)と呼ばれた。
 
ベアトリチェはヤヴォル公爵夫妻の10人いる子供たちのうちの第3子だった。シフィドニツァ公[[ベルナルト (シフィドニツァ公)|ベルナルト]]、ヤヴォル公[[ヘンリク1世 (ヤヴォル公)|ヘンリク1世]]、ジェンビツェ公[[ボルコ2世 (ジェンビツェ公)|ボルコ2世]]は弟、[[バイエルン大公|下バイエルン公]][[シュテファン1世 (バイエルン公)|シュテファン1世]](ルートヴィヒ4世の従兄)の妻ユディタは姉である。また、母ベアトリクスは父ボルコ1世の死後にビトム公[[ヴワディスワフ (ビトム公)|ヴワディスワフ]]と再婚したため、母とビトム公爵との間に生まれたコジュレ公[[カジミェシュ (コジュレ公)|カジミェシュ]]とエウフェミア(オレシニツァ公[[コンラト1世 (オレシニツァ公)|コンラト1世]]の妻)の2人は異父弟妹である。
 
[[1301年]]に父ボルコ1世が若くして亡くなると、ベアトリチェとその兄弟姉妹は母方の叔父であるブランデンブルク=ザルツヴェデル辺境伯[[ヘルマン (ブランデンブルク=ザルツヴェデル辺境伯)|ヘルマン]]の後見下で養育された。[[1305年]]ボルコ1世後継ぎ息子であるベルナルトが成人して領国を統治し始めるに伴い、ベアトリチェと他の兄弟の後見人の地位はベルナルトに移った。ベルナルトはバイエルンと同盟を結ぶことを望み、姉のベアトリチェに上バイエルン公[[ルートヴィヒ4世 (神聖ローマ皇帝)|ルートヴィヒ4世]]との縁談を持ち込んだ。ベアトリチェとルートヴィヒとの結婚式は[[1308年]][[10月4日]]に執り行われた。ベアトリチェは夫との14年間の結婚生活のうちに6人の子供を産んだが、うち成人したのは3人だけだった。
 
夫のルートヴィヒ4世は[[1314年]][[10月20日]]に[[ローマ王|ドイツ王]]に選出された。しかしが、ルートヴィヒ4世に反対する陣営は[[オーストリア君主一覧|オーストリア公]][[フリードリヒ3世 (ドイツ王)|フリードリヒ]](美王)]][[10月19日]]にドイツ王と宣言していた。2人のドイツ王位をめぐる争いは、ベアトリチェの存命中に解決に向かうことはなかった。このため、ベアトリチェのドイツ王妃の称号は、フリードリヒの妻イサベル・デ・アラゴンのそれと並立する状態にあった。ベアトリチェは夫が神聖ローマ皇帝として正式に戴冠する6年前に亡くなった。ベアトリチェの死の2年後、ルートヴィヒ4世は[[エノー伯|エノー女伯]][[マルガレーテ・フォン・ホラント|マルガレーテ]]と再婚した。
 
== 子女 ==
ベアトリチェは夫の間に6人の子供をもうけ、うち3人が成人した。
 
# マティルデ(1313年 - 1346年)…) - [[マイセン辺境伯]][[フリードリヒ2世 (マイセン辺境伯)|フリードリヒ2世]]と結婚
# 死産(1314年)
# [[ルートヴィヒ5世 (バイエルン公)|ルートヴィヒ5世]](1315年 - 1361年)…) - 上バイエルン公、[[ブランデンブルク辺境伯]]、[[チロル]]伯
# アンナ(1316年 - 1319年)
# アグネス(1318年 - ?)
# [[シュテファン2世 (バイエルン公)|シュテファン2世]](1319年 - 1375年)…) - 下バイエルン公、上バイエルン公
 
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