「松林図屏風」の版間の差分

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樹木の描き方には、等伯が私叙した[[牧谿]]の影響が見られるが、もはや模倣の域ではなく完全に自己の画風に取り込んでいる。粗放で力強い松を書くのに、等伯は藁筆を用いたとも言われる。また、[[室町時代]]の[[大和絵]]でしばしば描かれた『浜松図』(東京国立博物館、他蔵)や伝[[能阿弥]]筆の『三保松原図』([[頴川美術館]]蔵)の影響も指摘される。いずれにしても、大和絵の伝統のモチーフである松林のみを、中国から伝わった水墨画で描く点に、等伯の清新さが認められる。等伯の生まれ育った[[能登]]の海浜には、今もこの絵のような松林が広がっており、彼の脳裏に残った故郷の風景と牧谿らの技法や伝統と結びついて、このような日本的な情感豊かな水墨画が誕生したとも想像されている。
 
『等伯画説』第70条に、堺の宗恵<ref>[[茶人]]。水落宗恵。[[河内国|河内]]の[[平野区|平野]]出身とも言われるので、[[徽宗]]の鴨絵の所持者平野宗恵と同一人物と思われる。宗恵の子[[千紹二|紹二]]は[[千利休]]の三女の婿ともいわれるが、近年では『江岑夏書』の記述から紹二は利休の弟、宗巴の子とする説が有力</ref>が[[梁楷]]の柳の絵を見て呟いた「静かなる絵<ref>[[室町時代]]の『[[君台観左右帳記]]』が宝物を等級分けしていたのに対し、桃山時代になると[[茶の湯]]の世界で美術品について、媚びぬ絵、ひややかなる絵、さわがしき絵、ぬるき壷、といった評語が現れ鑑賞の深まりを見せる。なお『[[天王寺屋茶会記]]』には、[[宗恵が持っていた徽宗]]の鴨の絵を「しずかなる絵」と評した語がある</ref>」という言葉に等伯は共感して、自分の理想の絵画を「静かなる絵」と考えた話を記す。等伯が考えた「静かなる絵」は、「[[瀟湘八景]]」中の「瀟湘夜雨」「煙寺晩鐘」のような、雪、夜、雨、月、煙 (霧)が描かれた物で、遠くの雪山をのぞみ朝霧の立ち込めた松林を描く「松林図」は、まさに等伯が求める絵の具現化と考えて良いだろう。
 
本作品が世に知られるようになったのは比較的新しく、1932年(昭和7年)のことである。1934年に旧国宝(現行法の重要文化財に相当)に指定され、1952年に[[文化財保護法]]に基づく[[国宝]]に指定されている。