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'''島津 忠清 '''(しまづ ただきよ)は[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[薩摩国]][[島津氏]]の武将。
 
同年代に同名の人物が二人存在する。
 
== 島津義弘の子・忠清 (薩州家) ==
'''島津 忠清 '''(しまづ ただきよ、[[天正]]10年([[1582年]]) - [[文禄]]4年[[7月4日 (旧暦)|7月4日]]([[1595年]][[8月9日]]))。幼名は長満丸。[[通称]]は久四郎。父は[[島津義弘]]、母は広瀬氏([[園田実明]]の娘:実窓院)。子孫は佐司領主・島津久品。
 
島津氏16代当主・[[島津義久|義久]]の弟である義弘の5男として誕生する。[[薩摩藩]]初代藩主の[[島津忠恒|島津家久]](忠恒)は同腹の実兄である。
 
[[文禄]]2年([[1593年]])[[6月23日 (旧暦)|6月23日]]に[[上洛]]したとの記録があるが、その2年後に早世している。法名は「蘭桂純香大禅定門」。栗野(現・[[鹿児島県]][[姶良郡]])の徳光寺に葬られた。松下源四郎なる者が[[殉死]]している。
 
== 島津義虎の子・忠清 ==
'''島津 忠清 '''(しまづ ただきよ、[[元亀]]2年([[1571年]]) - [[元和 (日本)|元和]]6年[[1月5日 (旧暦)|1月5日]]([[1620年]][[2月8日]]))。[[薩摩国]][[島津氏]]庶流。[[通称]]は又助。[[官位]]は備前守。父は[[島津義虎]]。母は御平([[島津義久]]の娘)。
 
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元和6年(1620年)に病没。法名は「如岳院節翁玄忠大禅定門」。忠影以外に男子がいなかった為、跡目は忠影の孫・[[新納久珍]]の次男である[[新納久基]]が継いだ。
== 島津忠清 (伊作家) ==
'''島津 忠清 '''(しまづ ただきよ、[[天正]]10年([[1582年]]) - [[文禄]]4年[[7月4日 (旧暦)|7月4日]]([[1595年]][[8月9日]]))。幼名は長満丸。[[通称]]は久四郎。父は[[島津義弘]]、母は広瀬氏([[園田実明]]の娘:実窓院)。子孫は佐司領主・島津久品。
 
島津氏16代当主・[[島津義久|義久]]の弟である義弘の5男として誕生する。[[薩摩藩]]初代藩主の[[島津忠恒|島津家久]](忠恒)は同腹の実兄である。
 
[[文禄]]2年([[1593年]])[[6月23日 (旧暦)|6月23日]]に[[上洛]]したとの記録があるが、その2年後に早世している。法名は「蘭桂純香大禅定門」。栗野(現・[[鹿児島県]][[姶良郡]])の徳光寺に葬られた。松下源四郎なる者が[[殉死]]している。
 
 
== 参考文献 ==
*『[[本藩人物誌]]』 鹿児島県史料集(13)(鹿児島県史料刊行委員会)