削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
Sha-1024 (会話 | 投稿記録)
m 表現変更
5行目:
[[順帝 (漢)|順帝]]の[[永建 (漢)|永建]]年間(126年-132年)初め、公車で徴されて議郎を拝命した。当時順帝が新しく即位したばかりで、大臣は懈怠し、政事には欠けるところが多かった。左雄はしばしば提言し、この言葉は心からのものだった。当時の廷臣の無為を嘆いていた尚書僕射の[[虞詡]]が、左雄を、忠誠で公正、節義があると推薦し、[[尚書]]に抜擢された。
 
のちに昇進して[[尚書令]]となり、政務を執ることになった。左雄の上奏によって太学が修繕され、これは[[陽嘉]]1年([[132年]])に完成して、増員が施された。同年、[[孝廉]]の被推挙者に40歳以上という年限を設け、着任の前に試験を課すことで官吏の質の維持を試みた。この制度は[[胡広]]や[[張衡]]らの激しい反対を受けたが、順帝はあくまで施行を命じ、翌年、胡広らをはじめ10数人が誤った者を推挙したとして罷免された。試験を通って郎中を拝命した者は、[[陳蕃]]、[[李膺 (後漢)|李膺]]、[[陳球]]など30三十数人に過ぎなかった。太守達はおそれおののき、軽率な推挙をする者はなくなった。これによって、順帝の存命中、推挙登用は清平となり、多くの人材を得ることになった。
 
左雄は孝廉を改革する一方、上奏や尚書の運営には古典に倣う人物であり、九卿を鞭打つ刑に処すことを取り止め、順帝の乳母の'''宋娥'''を山陽君に封じることを災異を理由に重ねて反対した。宋娥はのちに誣告の罪が発覚して爵位を取り上げられた。