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Yasumi (会話 | 投稿記録)
関ヶ原
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[[三河国]][[加茂郡 (三河国)|加茂郡]]猿投(現在の[[愛知県]][[豊田市]])の生まれ。父は土豪の岩松玄蕃丞と伝わる。初め[[織田信長]]麾下、のちに[[徳川家康]]家臣。[[天正]]13年([[1585年]])に些細なことから争いを起こして国を追われ、[[摂津国]][[西成郡]]佃に蟄居。この際に名を「佃十成」と改めた。
 
その後[[加藤嘉明]]から請われて家臣となり、[[九州征伐の役]]、[[小田原征伐の役]]、[[文禄・慶長の役]]に従軍し功を立て、家老に取り立てられる。[[関ヶ原の戦い]]の際には、本戦に出陣した主君嘉明の留守居として領地の[[伊予国|伊予]][[松前城 (伊予国)|松前城]]に残り、[[毛利氏]]らの支援を受けて蜂起した[[河野氏]]の旧臣らの軍勢を策をもって撃退(後述の「三津刈屋口の戦い」を参照)その名を知らしめ、この戦功によって伊予国[[浮穴郡]]久万山に6000石の所領を与えられた。[[松山城 (伊予国)|松山城]]の築城では縄張りを担当し、加藤家の重臣として北郭に壮麗な屋敷を構えていたという。
 
墓所は[[愛媛県]][[松山市]]高砂の不論院。
 
== 三津刈屋口の戦い ==
{{see also|四国攻め#毛利輝元の四国攻め(関ヶ原の戦い)}}
[[関ヶ原の戦い]]の混乱に乗じて伊予国での領土切り取りを謀った毛利氏は、現地で御家再興を狙う河野氏の旧臣や瀬戸内の[[水軍衆]]に働きかけて蜂起させた。[[安芸国]]竹原から出陣した数百艘におよぶ舟の将は能島水軍の[[村上元吉]]、因島水軍の[[村上吉忠]]ら[[豊臣秀吉]]の定めた海賊禁止令によって活動の場を失った海賊たちで、伊予国三津浜(現在の愛媛県松山市古三津)に上陸すると、現地の河野氏旧臣の[[平岡直房]]らと合流し正木城(松前城)へ迫った。