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こうして作られた教育機関がセミナリヨ(初等教育)とコレジオ(高等教育)、およびノビチアート(イエズス会員養成)であった。
 
セミナリヨを設置するための場所選びが始まった。京都に建てることも考えたが、京都では仏教僧などの反対者も多く安全性が危ぶまれた。そこで[[織田信長]]の元を訪れ、新都市安土(現・[[滋賀県]][[蒲生郡近江八幡市]][[安土町]])に土地を願った。すぐさま城の隣のよい土地が与えられ、信長のお墨付きを得たことで、安全も保障された。信長の協力が得られた理由は、信長は仏教僧達を心よく思っていなかったため、対抗手段としてキリスト教を保護していたからである。こうして[[1580年]]に完成したのが安土のセミナリヨであった。同じ時期、九州地区でも長崎の有馬(現・[[長崎県]][[南島原市]])に同じようにセミナリヨがつくられた。
 
安土のセミナリヨは純和風建築三階建てで、客をもてなすための茶室が付属していた。信長は屋根の瓦に安土城と同じ青い瓦を使うよう命じ、イエズス会員たちはこれに感謝した。責任者となった[[グネッキ・ソルディ・オルガンティノ]]神父は入学者を集めるため、[[高山右近]]に依頼。彼はキリシタンである家臣の子弟8人を安土に送った。オルガンティノ神父がセミナリヨの目的について説明し希望者を募ると、彼らはそれに応えて入学を願った。その中には、後に長崎で殉教する[[パウロ三木]]や、[[元和の大殉教]]で死んだ[[アントニオ三箇]]がいた。