「陳勝・呉広の乱」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Xqbot (会話 | 投稿記録)
m ロボットによる 変更: en:Daze Village Uprising
Hansa (会話 | 投稿記録)
29行目:
 
== 呉広・陳勝の死 ==
呉広は[[ケイ陽|滎陽]]を攻めていたが、三川郡太守[[李由]]([[李斯]]の長子)の防戦にあって攻めあぐねていた。そのうちに周文は敗走し、秦軍は呉広の軍に迫ってくる。呉広の諸将は、田臧を中心としてひそかに陰謀をめぐらしていた。
「呉広は兵の使い方が下手だ。このまま秦軍と衝突して勝てるわけがない。呉広を殺し、指揮権を奪おう。」 
田臧らは呉広を殺して指揮権を奪い取り、陳勝に呉広の首を送った。陳勝はやむなく暗殺を正当だと認め、田臧を[[令尹]](宰相)とした。しかし、田臧も章邯の前に敗れ、戦死する。
 
章邯の破竹の進撃は続いた。各地で反乱軍を破った章邯は、ついに陳勝の本拠である陳にむかって進軍し、まずは張楚の[[上柱国]]・[[蔡賜]](房君)を討った。さらに陳の西方で張楚の[[張賀 (張楚)|張賀]]と交戦し、陳勝も自ら張賀を援けようと出陣するが敗北、張賀は戦死する。
 
12月、ついに陳勝は逃げ出して汝陰へ、ついで下城父へ到ったが、そこで自分の御者である荘賈に殺された。
 
陳勝の死後、対秦の戦争は楚の[[項梁]]によって引き継がれ、[[劉邦]]が[[武関]]を破るに及んでついに秦王・[[子嬰]]が降伏し、秦帝国(子嬰の代には王国に戻っていたともいわれる)は滅ぶ。時に紀元前206年であった。
 
しかし、その後も戦乱は終息せず、漢の劉邦と楚の[[項羽]]の争い、いわゆる[[楚漢戦争]]へと発展していく。