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[[画像:G. K. Chesterton.jpg|thumb|G・K・チェスタートン|180px|left]]
'''ギルバート・ケイス・チェスタートン'''('''Gilbert Keith Chesterton'''、[[1874年]][[5月29日]] - [[1936年]][[6月14日]])は[[イギリス]]の[[作家]]・[[推理作家]]・[[批評家]]。[[ディテクションクラブ]]初代会長。[[日本]]では'''チェスタトン'''と呼ばれることも多い。
 
[[画像:G. K. Chesterton.jpg|thumb|G・K・チェスタートン|180px|left]]
== 経歴 ==
[[1874年]][[ロンドン]]ケンジントンの不動産業・土地測量業の家に生まれる。[[1887年]]にセントポール校に入学すると1年下の[[E・C・ベントリー]]と出会い、生涯の親友となる。当初は画家を志し、[[1891年]]スレイド美術学校([[ロンドン大学]]付属)に入るが挫折して、文学を志すようになる。[[ボーア戦争]]勃発に際しては反イギリス側の論客として頭角をあらわし、[[自由主義]]派の有力な論客としてイギリスの政治・社会を糾弾していった。また、作家としてもカトリック教会の[[ブラウン神父]]が遭遇した事件を解明するシリーズが、探偵小説の古典として知られている
 
[[1922年]]に[[イングランド国教会]]から[[カトリック教会|カトリック]]に改宗。後期[[ヴィクトリア朝]]時代の物質主義・機械万能主義と自己満足とに対して鋭い批判を加えた。得意の警句と逆説を駆使した彼の文芸批評、文明批評は鋭利である。[[資本主義]]・[[社会主義]]双方を排撃し、配分主義を提唱した。1936年に死去し、その葬儀は[[ウェストミンスター大聖堂]]で行われた(このときカトリックの聖職者として葬儀を執り行ったのは、推理作家として有名な[[ロナルド・ノックス]]である)。
 
== 評価 ==
本格派推理トリック創出者である反面、作風として当時の知識層の例に漏れず、キリスト教徒としての視点、また当時の[[植民地主義]]に立脚する、[[黒人]]や[[インディアン]]、[[インディオ]]、[[東洋人]]など他民族への偏見・蔑視が色濃いことも特徴である。
カトリック教会の[[ブラウン神父]]が遭遇した事件を解明するシリーズが、探偵小説の古典として知られている。[[江戸川乱歩]]は「チェスタートンのトリック創案率は探偵小説随一」と賞賛している。エッセイや評論にも名品があり、[[チャールズ・ディケンズ|ディケンズ]]の評伝は[[T・S・エリオット]]などによってこの分野の最高のものと見なされた。並外れた巨体でも有名であった(り、[[ジョン・ディクスン・カー]]の創造した探偵ギデオン・フェル博士のモデルとも言われる
 
本格派推理トリック創出者である反面、作風として当時の知識層の例に漏れず、キリスト教徒としての視点、また当時の[[植民地主義]]に立脚する、[[黒人]]や[[インディアン]]、[[インディオ]]、[[東洋人]]など他民族への偏見・蔑視が色濃いことも特徴である。
カトリック教会の[[ブラウン神父]]が遭遇した事件を解明するシリーズが、探偵小説の古典として知られている。[[江戸川乱歩]]は「チェスタートンのトリック創案率は探偵小説随一」と賞賛している。エッセイや評論にも名品があり、[[チャールズ・ディケンズ|ディケンズ]]の評伝は[[T・S・エリオット]]などによってこの分野の最高のものと見なされた。並外れた巨体でも有名であった([[ジョン・ディクスン・カー]]の創造した探偵ギデオン・フェル博士のモデルとも言われる)。
 
== 主な著作 ==
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==エピソード==
結婚式の当日、遅刻しそうになって急いでいたが、一旦休息したところ馴染みの銃砲店の主人に以前に頼んだ猟銃が手に入ったと言われた。チェスタートンは銃を購入して喜んで携えていたが結婚式に急いだことを忘れて、新婦を殺害するのかと列席者に勘違いされてしまうことになってしまった。
 
== 外部リンク ==
{{commonscat|G.K. Chesterton}}