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m 評の編成に移住
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移民政策
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『日本書紀』の大化3年(647年)是歳条に、「[[渟足柵]]を造り、柵戸を置く」とあるように、城柵は蝦夷征討の拠点となっていて、律令政府の支配下となった地域には、北陸や関東地方などから柵戸が移民として送られ、開拓や警備などに従事した。
 
こうした移民は、大化5年(649)を起点に地方行政組織として設立された「[[評]]」の成立と関係している。坂東(関東地方にも評が立てられ、その下部行政組織の[[里]]の編成のために移住も行われたと考えられる。
 
こうした移住政策(柵戸政策)は、養老6(722)年以降しばらく行われなくなるが、天平宝字元(757)年以降に桃生(ものう)城・雄勝(おかち)城の造営に伴って再び開始される。
移住させられる住民は、「戸」を単位としたものでなく犯罪人や浮浪浪人などの移転が中心となっている。さらに桃生城・伊治城の造営や桃生郡・栗原郡を建てるに当たっては、陸奥国や坂東(関東地方)諸国から住民に優遇措置を与えて移住させる政策がとられる。それは住民の希望者を募るという方法にかわっていた。しかし、移民政策は継続されていて、延暦21(802)年正月に駿河・甲斐・相模・武蔵・上総・下総・常陸・信濃・上野・下野諸国の浪人4000人を陸奥胆沢城に移転させている(『日本紀略』延暦2年正月戊辰条)。この移民政策の記事が最後で、桓武朝末年の蝦夷征伐中止の決定と関連して放棄されたと考えられている。<ref>平野卓治「律令国家と「坂東」」 上原真人他編(2006年)137-139頁</ref>
 
 
== 脚注 ==
<references />
 
== 参考文献 ==
*橋本博文・平野卓治「古代のの舞台 坂東」 上原真人・白石太一郎・吉川真司・吉村武彦『列島の古代史1 ひと・もの・こと 古代史の舞台』岩波書店 2006年
 
== 関連項目 ==