「アウグスト2世 (ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公)」の版間の差分

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[[ファイル:August d.J..jpg|thumb|200px|アウグスト2世、1666年の肖像画]]
{{otheruses|ブラウンシュヴァイク=ヴォルフォンビュッテル侯|ザクセン選帝侯兼ポーランド王|アウグスト2世 (ポーランド王)}}
'''アウグスト2世'''([[ドイツ語]]:August II., [[1579年]][[4月10日]] - [[1666年]][[9月17日]])は、[[ブラウンシュヴァイク=リューネブルク|ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公]]の一人で、ヴォルフェンビュッテル侯(在位[[1635年]] - 1666年)。1635年の[[ヴェルフ家]]による分割相続に際し、ヴォルフェンビュッテル侯領を与えられた。ブラウンシュヴァイク=ダンネンベルク公[[ハインリヒ (ブラウンシュヴァイク=ダンネンベルク公)|ハインリヒ]]とその妃ウルスラ・フォン・ザクセン=ラウエンブルクの第7子、4男。
 
一族との難しい交渉と神聖ローマ皇帝[[フェルディナント2世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント2世]]による調停の結果、アウグストは最後の領主[[フリードリヒ・ウルリヒ (ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公)|フリードリヒ・ウルリヒ]][[1634年]]に死んだばかりだったヴォルフェンビュッテル侯領を相続することが決まった。しかし[[三十年戦争]]のため、アウグストは[[1644年]]まで自分の領国に移ることが出来なかった。ヴォルフェンビュッテルの統治者となったアウグストは、数多くの政治改革を行い、ヴォルフェンビュッテルに[[アウグスト公爵図書館]]を設立した。
 
またアウグストは著作家でもあり、グスタヴス・セレヌス(Gustavus Selenus)というペンネームを使っていた。彼は[[1616年]]に「チェスあるいは王の遊戯」という[[チェス]]に関する本を書き、[[1624年]]には[[暗号理論]]の書物を著した。暗号理論の書物は隠秘学の大家[[ヨハンネス・トリテミウス]]の初期の著作に大幅に依拠したものだった。彼のペンネームのうち、名前の「グスタヴス」は自分の本名のラテン語形「アウグストゥス(Augustus)」のアナグラムであり(V=U)、姓の「セレヌス」はギリシャ神話の月の女神[[セレネ]]に因むものだった。
 
== 子女 ==
アウグストは[[1607年]]、ポンメルン公[[ボギスラフ13世]]の娘クララ・マリア(1574年 - 1623年)と最初の結婚をした。クララ・マリアとの間には11女をもうけたが、いずれも[[夭折]]した。
*娘(1609年没)
*息子(1610年没)
 
[[1623年]]、アウグストはアンハルト=ツェルプスト侯[[ルドルフ (アンハルト=ツェルプスト侯)|ルドルフ]]の娘ドロテア(1607年 - 1634年)と再婚した。ドロテアとの間には32女をもうけた。
*ハインリヒ・アウグスト(1625年 - 1627年)
*[[ルドルフ・アウグスト (ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公)|ルドルフ・アウグスト]](1627年 - 1704年)
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*[[アントン・ウルリヒ (ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公)|アントン・ウルリヒ]](1633年 - 1714年)
 
[[1635年]]、アウグストはメクレンブルク=ギュストロウ公[[ヨハン・アルブレヒト2世 (メクレンブルク公)|ヨハン・アルブレヒト2世]]の娘エリーザベト・ゾフィー(1613年 - 1676年)を3度目の妻に迎えた。エリーザベト・ゾフィーとの間には21女をもうけた。
*[[フェルディナント・アルブレヒト1世 (ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル=ベーヴェルン公)|フェルディナント・アルブレヒト1世]](1636年 - 1687年)
*マリー・エリーザベト(1638年 - 1687年)…1663年、ザクセン=アイゼナハ公[[アドルフ・ヴィルヘルム (ザクセン=アイゼナハ公)|アドルフ・ヴィルヘルム]]と結婚