「環濠集落」の版間の差分

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近畿では早期の環濠集落はないが、'''前期前半'''では[[神戸市]]大開遺跡がある。長径70メートル、短径40メートルで、環濠内からは[[竪穴住居]]と貯蔵穴が検出されている。環濠の断面はV字形と逆台形で、溝の幅2メートル、深さ1.5メートルあったと推定されている。出土した石器のうち[[石器|打製石器]]が大きな割合を占めている。
 
[[愛知県]]の[[朝日遺跡]]は、弥生時代'''中期'''の集落であり、環濠集落のなかでも最も防御施設の発達した集落として知られている。集落の外側に大濠をめぐらせて、その土で内側に土塁を築き、その上いたと考えられている。さら柵をめぐらし、その外側には逆茂木を伴う2重の柵と乱杭をめぐらし、この三重の柵に逆茂木を外側に向け打ち込んでいる。
発掘調査によって、土塁の上には[[ピット (考古学)|ピット]](柱穴)が検出されることがあり、柵列があったと思われる。
 
弥生時代'''前期末'''以降に発達する環濠集落は、[[濃尾平野]]以西の各地域に水稲農耕が定着した段階であり、その定着によって引き起こされた土地や水争いなどの村落間の[[戦い]]に備えて独自に成立したと見られる。そのころ、[[福岡市]]の[[板付遺跡]]と[[大阪府]][[高槻市]]の[[安満遺跡|安満(あま)遺跡]]、[[京都府]]中郡[[峰山町]][[扇谷遺跡]]などに環濠集落が現れる。板付では復元幅2メートル以上、深さ1メール以上の断面V字形の溝を、長径120メートル、短径100メートルの長円形に堀めぐらしている。濠外にも住居や穴倉がある。扇谷遺跡では、最大幅6メートル、深さ4メートルの環濠か、長径270メートル、短径250メートルでムラを囲っている。これらの遺跡からムラを[[防御]]していることが考えられる。また、[[北部九州]]や[[近畿地方]]などの西日本では、水稲農耕の定着した時期の弥生時代前期末段階で、ムラづくりが共通していたとも考えられる。次の弥生'''中期'''以降、近畿では環濠集落が普及し、径300から400メートルに及ぶ大規模な環濠を持ち、人々は濠内に集住したらしい。