「キーラ・キリロヴナ」の版間の差分

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1917年に[[ロシア革命]]が起きると、キリル大公一家は[[フィンランド]]に亡命した。フィンランドに逃れてまもなく、40歳の母ヴィクトリア・メリタは長男[[ウラジーミル・キリロヴィチ・ロマノフ|ウラジーミル]]を出産した。大公一家は[[白軍]]が[[ボリシェヴィキ]]政権を打倒したらすぐ帰国しようと、1年以上その時を待ち続けたが、帝政復活は実現しなかった。一家はドイツの[[コーブルク]]に移り、その後フランスの[[サン=ブリアック=シュル=メール|サン=ブリアック]]に身を落ちつけた。キーラは[[アレクサンドル2世]]の曾孫として「ロシア公女」の称号を与えられていたが、1924年父キリル大公がロシア皇帝を自称すると、それに伴い「[[ロシア大公女]]」の称号を使用することになった。
 
キーラは活発で一本気な性格で、怒りっぽくさえあり、姉の[[マリヤ・キリロヴナ|マリヤ]]とは対照的だった。またキーラは知的で好奇心が強く、母と同じく芸術に関心があり、サン=ブリアックのアート・スタジオで働くようになった。キーラは親戚たちの住む[[イギリス]]宮廷をしばしば訪れた。キーラは適齢期になってもなかなか縁談がまとまらなかった。最初、キーラにはスペインの王位継承者[[アルフォンソ・デ・ボルボーン・イ・バッテンベルグ|アルフォンソ]]王子との縁談が舞い込んだが、アルフォンソがギリシアの[[ニコラオス・ティス・エラザス (ギリシャ王子1872-1938)|ニコラオス]]王子の娘たちに関心を寄せ始めたため、立ち消えになった。次にキーラは[[ルーマニア]]の大貴族コンスタンティン・スツ公爵と恋に落ちたが、キーラの従兄であるルーマニア王[[カロル2世 (ルーマニア王)|カロル2世]]は政治的理由から二人の結婚を許さなかった。
 
1938年5月4日、キーラはプロイセンの[[ルイ・フェルディナント・フォン・プロイセン (1907-1994)|ルイ・フェルディナント]]王子と結婚した。ルイ・フェルディナントはドイツの[[ヴィルヘルム・フォン・プロイセン (1882-1951)|ヴィルヘルム]]元皇太子の次男で、いずれプロイセン王家の家長となる予定だった。夫妻は7人の子供をもうけ、[[ブレーメン]]で暮らした。[[第2次世界大戦]]中、夫が反ナチ地下運動に関わっていたため、大戦末期に夫妻は[[ダッハウ強制収容所]]に投獄され、1945年にアメリカ軍によって解放された。