「チェスター・カールソン」の版間の差分

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1942年10月6日、カールソンの電子写真法の特許が発効した<ref>{{US patent|2297691}} "Electrophotography".</ref>。
 
カールソンの成功への道のりは長く、失敗の連続だった。1939年から1944年まで、彼は12社に出資を要請して断られた<ref>{{cite web|url= http://www.ideafinder.com/history/inventors/carlson.htm|title=Fascinating facts about Chester Carlson inventor of Xerography in 1938.|accessdate=2009-11-09|date=June 1, 2006}}</ref>。その中には[[IBM]]も含まれ、後年、[[トーマス・ジョンJ・ワトソン・ジュニア]]は「逃してしまった一番大きな魚」と述懐している。商業化の資金援助を得る最後の頼みの綱として、海軍との会合に臨んだ。しかし海軍は乾式複写には興味を示したが、カールソンの考えを理解できなかった。最後の足掻きでカールソンは1942年、[[コロンバス (オハイオ州)|コロンバス]]の [[:en:Battelle Memorial Institute|Battelle Memorial Institute]] に彼のアイデアを持ち込んだ。そこで、John S. Crout と Clyde E. Williams に出会う。ガラス棒と獣皮と炭素粉末を使い、カールソンはガラス棒に蓄えた電荷が炭素粉末を引きつける様子を実演した。Croutはカールソンの説明に納得し、Crout は Williams らに開発への投資案を策定させた。1946年から1953年にかけて、Crout は Haloid Company とのライセンス契約締結に尽力した(同社が1961年に[[ゼロックス]]に改称する)。結局、カールソンのアイデアは1942年から1946年に Battelle で実用化可能であることが示され、1946年から1953年に後のゼロックス (Haloid) で商業化された。ゼログラフィが全ての謄写版印刷機をお蔵入りさせるまで、それから20年ほどかかった。カールソンは粘り強く働いた。彼の考案した複写法で彼は裕福になり、Battelle Memorial Institute も裕福になった。それはまた著作権のあり方や人々の仕事のスタイルも一変させた。ゼログラフィの基盤となっている物理学はその後も発展し、[[レーザープリンター]]などが生み出された。
 
== ゼロックス ==