「赤軍パルチザン」の版間の差分

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ベラルーシには深い森林や沼沢地が多く、[[モスクワ]]に繋がる道路や線路が集中しているためソ連政府はパルチザン活動が重要になると考え、「種子部隊」を派遣して[[バルバロッサ作戦]]の際に取り残された赤軍兵士と合流させ、後方のかく乱を行ったが、戦線がさらに遠のくと支援が得にくくなり、[[1942年]]3月まで大規模な支援は得られなかった。
 
赤軍のラジオ放送は同年四月まで届かず、地元の人々の支持を得られなかったことがために活動困難にしなものとなった。[[モスクワの戦い]]でソ連軍が勝利するとパルチザン兵の士気は高まったが、冬季大反攻が経過するまでベラルーシそしてドイツ占領地域全体におけるパルチザン運動に転機は訪れなかった。
 
[[File:Soviet_guerilla.jpg|thumb|200px|[[ベラルーシ]]の森林で戦闘に参加するパルチザン兵、[[1943年]]]]
[[1942年]]春、独ソ戦1年目の経験から派遣隊は[[旅団]]に統合され始めた。部隊の調整や増強、再構成、[[補給]]路の設立が行われてパルチザンの戦闘能力を高め、年末までに鉄道に対するサボタージュによって数百のエンジン数百台車両数千の車両が破壊された。この年、地域行政に対するテロ活動が目立ち、結果として住民のうち一部ではあったが、地元民からなる反パルチザン部隊に加わったものもいた。同年11月にはパルチザンの兵力は4万7千人に達していた。
 
[[1943年]][[1月]]の時点でパルチザン兵士5万6千人中1万1千人がベラルーシ西部で活動していたのは1万1千人で、東部の人数より地元住民1万人につき3.5人少なかった。
 
== ロシア ==
[[ブリャンスク]]方面では、パルチザンはドイツ軍の前線の後方で広大な領域を支配していた。1942年の夏には面積1万4千平方キロメートル、人口20万人を掌握していた。ロシアのドイツ軍占領地では[[アレクセイ・フョードロフ]]、[[アレクサンドル・サブロフ]]らに率いられた6万人のパルチザンが活動し、[[ベルゴロド州]]、[[オリョール州]]、[[クルスク州]]、[[ノヴゴロド州]]、[[レニングラード州]]、[[プスコフ州]]、[[スモレンスク州]]などの地域で活発に動いた。このうちオリョールとスモレンスクのパルチザンは[[ドミトリー・ニコラエヴィッチ・メドヴェージェフ]]に指揮されていた。
 
[[1943年]]に赤軍がロシア西部と[[ウクライナ]]北東部の解放に着手すると、フョードロフ、サブロフ、メドヴェージェフらは独軍占領下のウクライナ中部・西部に移動してパルチザン活動を続けるよう命令された。
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