「沖縄唐手研究倶楽部」の版間の差分

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山元 (会話 | 投稿記録)
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設立年も、{{和暦|1923}}(八木明徳)<ref name="r3"> 八木明徳『男明徳の人生劇場』平成12年、131頁参照。</ref>、{{和暦|1924}}(上原清吉)<ref name="r2" />、1926年(大正15年)(宮城長順)<ref>『布哇報知』1934年5月7日[http://museum.hikari.us/news/340507b-hh.jpg]。</ref><ref>宮城長順「唐手道について」昭和11年。</ref>等、2,3年のばらつきがある。大正12、13年に設立された「唐手研究倶楽部」を前身団体、大正15年に設立された「沖縄唐手研究倶楽部」を後身団体と解釈する文献もあるが<ref>『沖縄空手古武道事典』573頁参照。</ref>、両者とも閉鎖時期は後述するように昭和2~4年と時期が重なるので、同一の団体とも考えられる。{{和暦|1925}}、宮城長順が友人の呉賢貴を保証人として金融業者から資金を借り<ref>東恩納盛男『剛柔流空手道史』平成13年、47頁参照。</ref>、翌年道場が完成したのでそれ以前の露天での稽古時代と以降の道場での稽古時代との区別から生じた相違かも知れない。
 
道場の面積は約10~20坪で、他に50坪程度の庭があり、そこを土間の道場としても利用した。下げマキワラ、チンチーシ、石ジャーシなど各種鍛錬具も備えていた。旧暦の1日と15日には、各師範が集まり山田真山画伯が描いた「武神」の掛け軸を床の間に飾り、礼拝した後飲食しながら空手談義に花を咲かせたという<ref name="r3" /><ref>東恩納盛男『剛柔流空手道史』47頁参照。</ref><ref name="r1" />。
 
沖縄の当時の諸大家が多数参加する画期的な組織設立であったが、経営は当初から赤字続きで次第に行き詰まるようになり、昭和初期に会長・本部朝勇の死去とともに閉鎖された。閉鎖された時期は、{{和暦|1927}}頃(八木明徳)<ref>八木明徳『男明徳の人生劇場』平成12年、132頁参照。</ref>、{{和暦|1929}}頃(東恩納盛男説)と、こちらも若干の幅がある。