「開拓使」の版間の差分

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*明治4年(1871年)[[8月20日]]に分領支配は廃止され、開拓使が館県(旧[[松前藩]]領)を除く全域を直轄統治することになった。
[[Image:Kiyotaka Kuroda formal.jpg|120px|thumb|right|黒田清隆]]
[[Image:Horace Capron.jpg|120px|thumb|right|ケプロン]]
===黒田清隆の時代===
*[[樺太]]では、箱館府の時代から[[岡本監輔]]が統治の任にあたっていた。[[兵士]]と[[移民]]を送りこむ[[ロシア]]に対し、日本が劣勢に立たされていることに強い危機感を抱いた政府は、明治3年(1870年)に樺太開拓使を設置し、[[黒田清隆]]を開拓使次官にして樺太専務を命じた。
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*明治5年([[1872年]])10月、[[松前藩#館県|旧館県]]であった[[渡島国]]に属する[[福島郡]]・[[津軽郡 (渡島国)|津軽郡]]・[[檜山郡]]・[[爾志郡]]の4郡が[[青森県#近代以降の年表|青森県]]から開拓使に移管。
*黒田は明治7年([[1874年]])に長官となったが、北海道に赴任せずに東京から指示を出す態勢をとった。黒田は米国人[[ホーレス・ケプロン]]らの[[お雇い外国人|御雇外国人]]を招いて政策の助言と技術の伝習を行わせた。
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image:William S. Clark.jpg|御雇外国人(クラーク)
[[Imageimage:Horace Capron.jpg|120px|thumb|right|御雇外国人(ケプロン]]
image:Edwin Dan.jpg|御雇外国人(ダン)
image:ベーマーの写真.jpg|御雇外国人(ベーマー)
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*開拓使は潤沢な予算を用いて様々な開拓事業を推進したが、広大な範囲でなおも全てを完遂するには不足であり、[[測量]]・[[道路]]などの基礎事業を早々に切り上げ、産業育成に重点をおいた。
*黒田は、北海道の開拓に難渋する現状では自然条件がいっそう不利な樺太まで手が回らないという考えを抱いていた。この方針に反対した岡本の辞任もあって、樺太の開拓は進展しなかった。