「ブダペスト包囲戦」の版間の差分

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{{Battlebox
|battle_name = ブダペスト包囲戦
|campaign = ブダペスト攻勢
|image = [[Image:BudapestStreet1945.jpg|300px|]]
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|commander1 = [[画像:Flag of Germany 1933.svg|22px]][[アドルフ・ヒトラー]]<br/>[[画像:Flag of Germany 1933.svg|22px]]カール・プフェッファー=ヴィルデンブルッフ(Karl Pfeffer-Wildenbruch)<br/>[[画像:Flag of Hungary 1940.svg|22px]]イヴァーン・ヒンディ(Iván Hindy)
|commander2 = {{flagicon|Soviet Union|1923}}[[ロディオン・マリノフスキー]]<br/>{{flagicon|Soviet Union|1923}}[[フョードル・トルブーヒン]]<br/>[[画像:Flag of Romania.svg|22px]]フェオドル・トゥラス(Feodor Tulas)
|strength1 = 将兵180,000名 (内90,000名が都市部の防衛)
|strength2 = 将兵500,000名 (内170,000名が都市部攻撃に参加)
|casualties1 = 戦死・負傷・捕虜99,000から150,000名
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|casualties3 = 民間人の死者40,000名
|}}
'''ブダペスト包囲戦 '''は[[ハンガリー]]首都[[ブダペスト]]の包囲戦であり、[[第二次世界大戦]]終末時、[[赤軍|ソビエト赤軍]]による[[ブダペスト攻勢]]によって行われた戦いのひとつである。1944年12月29日、ハンガリー軍、[[ドイツ国防軍]]によって防衛されたブダペストがソビエト赤軍、ルーマニア軍によって包囲された時、この包囲戦が始まり、1945年[[2月13日]]、守備隊の[[無条件降伏]]をもって終了した。ブダペストの包囲はソビエト赤軍第2ウクライナ方面軍(司令官[[ロディオン・マリノフスキー]])の一部が行い、ドイツ国防軍、[[武装親衛隊]]、ハンガリー軍の雑多な部隊がソビエト赤軍に対し配置された。ブダペスト包囲戦は第二次世界大戦で最も血の流れた戦いのひとつであった。
 
== 状況 ==
1944年までハンガリーはドイツと共にソ連との戦争を続行していたとはいえ、戦線に敗北の様相が濃くなるにつれ、その協力度は「気の乗らない衛星国」のそれになりつつあった。1944年春までには戦況を絶望視したハンガリー政府首脳は[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]との[[休戦]]を望んでいたが、ドイツは[[バラトン湖]]周囲にあるハンガリー油田を必要としており、またハンガリーに居住するユダヤ人の[[ホロコースト|徹底的な殲滅を計画]]、[[3月19日]]、ドイツ軍は[[マルガレーテ作戦#マルガレーテI|マルガレーテ作戦]]を発動、ドイツ軍はハンガリーへ侵入し親独派の[[ストーヤイ・デメ]]政権を樹立させる。しかしハンガリー[[摂政]]の座を保った[[ホルティ・ミクローシュ]]提督はなお休戦を試みようとしていた。
 
1944年6月末、[[バグラチオン作戦]]とその後の進撃によりソ連軍は[[バルカン半島]]に侵入してきた。1944年10月、ホルティは連合軍と和平について交渉する機会をつかんだ。しかしドイツ側にこのことが露見してしまい、[[10月16日]]ドイツ軍は[[パンツァーファウスト作戦]]を発動、ホルティを摂政から退任させ、親ナチの[[矢十字党]]とその指導者[[サーラシ・フェレンツ]]がハンガリーを掌握することとなった。
 
== 包囲 ==
=== ソ連軍ブダペスト進出 ===
[[Image:Soviet pressing 1944.JPG|thumb|right|300px|1944年、ブダペスト近郊でドイツ軍を圧倒するソビエト赤軍戦車と歩兵部隊]]
1944年10月29日、ソビエト赤軍はブダペストへの攻撃を開始,
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1944年[[12月29日]]、包囲網完成を受けてソビエト第2ウクライナ方面軍司令官マリノフスキーはブダペストに降伏を勧告するために特使2名を派遣した。しかし特使は戻ることは無かった。このことについては、特使が故意に射殺されたとドイツ、ハンガリーの歴史家の一部は主張しており、この点についてはソ連内でも広い議論が存在している。また、他の意見では特使らは帰り道の途中、誤射されたと主張しているが、いずれにせよ、これを降伏の拒絶と判断したソビエト赤軍は攻略戦の開始を命令した。
 
=== 包囲の開始とドイツ軍最初の反撃 ===
攻勢は街の東側[[ペシュト]]へ向けられ、中央大通りを急速に進撃してくるソ連軍にドイツ軍、ハンガリー軍は圧倒された。効果的な反撃は不可能と思われたため、ドイツ・ハンガリー軍の指揮官はせめて敵の進撃を遅らせるため、遅滞戦術を作戦の中心とし、最終的にはペシュトを放棄して[[ドナウ川]]を渡って後退、[[ブダ]]の丘が多い地形を利用してさらなる防衛戦を行うこととした。
 
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1月17日、第三次コンラート作戦が開始、ドイツ第IVSS装甲軍団、第III装甲軍団はブダペスト南方より攻撃を行い、ソビエト赤軍の4個師団を包囲を試みた。
 
=== 1月1日、ペシュト攻防戦に参加した部隊 ===
==== 第30狙撃兵軍団 ====
* 第25[[親衛隊 (ソ連・独立国家共同体)|親衛]]狙撃兵師団
* 第151[[狙撃手#狙撃師団|狙撃兵師団]]
* 第155狙撃兵師団
* 第16砲兵師団
* 第18親衛榴弾砲兵旅団
* 第49親衛加農砲旅団
* 第115親衛対戦車連隊
==== 第18親衛狙撃兵軍団 ====
* 第66親衛狙撃兵師団
* 第68親衛狙撃兵師団
* 第297狙撃兵師団
* 第317狙撃兵師団
* 第17加農砲旅団
* 第152加農砲旅団
* 第95榴弾砲兵旅団
* 第27迫撃砲旅団
* 第48「カチューシャ」連隊
* 第14突撃工兵旅団
==== 第VIIルーマニア軍団 ====
* 第2歩兵師団
* 第19歩兵師団
* 第9[[騎兵]]師団
 
ペシュトの戦いの間、参加した戦車部隊
* 第23戦車軍団の2個大隊
* 第3戦車旅団
* 第39戦車旅団の1個中隊
 
合計、戦車22両
 
ブダの戦いの間、参加した戦車部隊
* 第23戦車軍団の1個中隊
* 第5親衛戦車軍団の1個中隊
 
合計、戦車119両
 
1月1日時点での砲兵部隊
* 203mm[[榴弾砲]]:48門
* 152mm[[加農砲]]/榴弾砲:172門
* 122mm加農砲/榴弾砲:294門
* 76mm師団所属砲:191門
* 76mm連隊所属砲:174門
* 45mm/57-mm対戦車砲:158
 
== 戦闘の激化 ==
とかくする間、ブダペストでの市街戦は激化しており、包囲開始直前の1944年[[12月27日]]にはすでに[[フェリヘジ空港]]を喪失していたため、枢軸軍にとって輸送問題は決定的な要素であった。1945年1月9日まで、ドイツ軍はブダ城に隣接する公園、大通りを利用していくつかを航空機、グライダーの発着場としていたが、常にソビエト赤軍の砲撃に悩まされていた。また、ドナウ川が凍るまでは暗闇と霧を利用していくつかの必需品をはしけで輸送することも行っていた。
 
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1945年1月17日、ヒトラーはブダの防衛のためにペシュトから全ての残存部隊を撤退させることに同意、ドナウ川にかかる5つの橋は全て渋滞を引き起こしながらも将兵、民間人らは避難した。1945年1月18日、ハンガリー軍将校の抗議にも関わらず、ドイツ軍は5つの橋を爆破した。
 
=== ドイツ軍、2回目の反撃 ===
1945年1月20日、ドイツ軍は2度目の大規模な反撃を開始、ソビエト赤軍の防衛線に20Kmに及ぶ穴を開け、ドナウ川へ進撃、ブダペスト南方からソビエト赤軍の補給線を脅かした。
 
スターリンはソビエト赤軍に占領を命令、そしてブダペスト攻撃のために派遣された2個軍団はドイツ軍の攻撃に対応するために南へ急行した。しかしブダペストまで後20Km未満まで進撃していたドイツ軍はすでに疲弊しており、攻撃の維持ができず、結局問題を解決できなかった。そのため、ブダベストの防衛部隊は包囲からの脱出する許可を願ったが、ヒトラーは拒絶した。1945年1月28日、ドイツ軍は戦線を保持できなくなり、撤退せざるを得なくなった。そのため、ブダペスト防衛隊の運命は閉ざされることとなった。
 
=== 1月21日、ブダペストの攻撃に参加した部隊 ===
* 第83海軍歩兵旅団
==== 第75親衛狙撃兵軍団 ====
* 第113狙撃兵師団
* 第180狙撃兵師団
* 第109狙撃兵師団の2個連隊
 
総勢、将兵114,719名
 
==== 第37親衛狙撃兵軍団 ====
* 第108狙撃兵師団
* 第316狙撃兵師団
* 第320狙撃兵師団
 
総勢、将兵116,645名
 
==== 第18親衛狙撃兵軍団 ====
* 第66親衛狙撃兵師団
* 第68親衛狙撃兵師団
* 第297狙撃兵師団
* 第317狙撃兵師団
 
総勢、将兵13,140名
 
* 第5砲兵師団
* 第7砲兵師団
* 第16砲兵師団
* 第462迫撃砲連隊
* 第48「カチューシャ」連隊
* 第12突撃工兵旅団
* 第14突撃工兵旅団
* 戦車中隊から9両のT-34
 
==== 1月1日時点の火砲 ====
* 203mm榴弾砲:69門
* 152mm加農砲 /榴弾砲:116門
* 122mm加農砲 /榴弾砲:160門
* 76mm師団所属砲:245門
* 76mm師団所属砲:60門
* [[ZiS-2 57mm対戦車砲|57mm対戦車砲]]:20門
* 45mm対戦車砲:114門
* 82mm迫撃砲:307門
* 120mm迫撃砲:213門
* [[カチューシャ (兵器)|カチューシャ]]:24門
 
=== ブダ攻防戦 ===
[[Image:Budapest 1945.jpg|right|300px|thumb|戦いの後のブダペスト、1945年]]
平らな地形のペシュトと違い、ブダは丘に築かれた町であった。これはドイツ軍が火砲を丘に配置、さらに丘を利用して防衛陣地を築くことを可能としており、ソビエト赤軍は攻撃が大幅に鈍り始めていた。主防衛陣地のゲッレールトの丘([[:en:Gellért Hill|en]]) は精鋭の武装親衛隊が防衛しており、いくつかのソビエト赤軍による攻撃を撃退した。その近辺でドイツ軍とソビエト赤軍は共同墓地で戦い、蓋を開けられた墓地上の戦いは数日間続いた。ドナウ川の中にあるマルギット島([[:en:Margaret Island|en]])での戦いは特に情け容赦の無い激しいものとなった。島とブダを繋ぐマルギット橋は半壊していたとはいえブダとの行き来が可能であったため、下町に臨時に設営された飛行場の一部、または補給物資の投下拠点に使用されたからである。ソビエト赤軍は島への攻撃に第25親衛狙撃兵師団を投入した(損失は後述)。
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2日間の大激戦において血が流された上で[[ブダペスト南駅]]([[:en:Budapest Déli railway station|en]])を占領したソビエト赤軍は、城の丘へ進撃した。1945年2月10日、激戦の末、ソ連海軍歩兵が城の丘に橋頭堡を確立したが、丘の半分は依然、枢軸軍が占拠していた。
 
=== ドイツ軍3度目の反撃、そして降伏 ===
[[Image:Budamarch1945.jpg|thumb|250px|戦いの後のブダペスト]]
ヒトラーはドイツ軍指揮官カール・プフェッファー=ヴィルデンブルッフが包囲から脱出することもしくはブダペストから撤退することを禁ずる命令を改めて出した。しかし、補給物資を運ぶグライダーによる輸送は数日前に終了、さらにパラシュートによる物資投下も中止されていた。
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===戦いにおけるソビエト赤軍、ルーマニア軍の損失<ref name="Isaev">Isaev, A. V. 1945-y. Triumf v nastuplenii i v oborone: ot Vislo-Oderskoy do Balatona/1945th. Triumph both in offencive and in defence: from Vistula-Oder to Balaton. (Moscow, 2008. ISBN 978-5-9533-3474-7) pp. 196, 199, 201</ref>===
==== ルーマニア第IV軍団 ====
(1月分については1月後半における攻撃からの推測)
* 軍団司令部:戦死7名、行方不明3名、負傷19名、戦病3名
* 第2歩兵師団:戦死147名、行方不明29名、負傷654名、戦病149名
* 第19歩兵師団:戦死181名、行方不明12名、負傷936名、戦病42名
* 第9騎兵師団:戦死79名、負傷272名、戦病6名
 
==== ソビエト赤軍第18狙撃兵軍団 ====
 
(第66親衛狙撃兵師団、第 68親衛狙撃兵師団、第 297狙撃兵師団、第317狙撃兵師団)
戦死791名、行方不明50名、負傷 2,568名戦病 72名(1月1日から10日)
 
* 第25親衛狙撃兵師団(1月20日から31日):戦死、殺害された29名を含む452名
 
包囲に参加した全ての軍(2月1日から10日):戦死1,044名、行方不明52名、負傷3,411名、戦病276名
 
== その後 ==
春の目覚め作戦を除いて、その年の3月に開始されたブダペスト包囲戦はドイツ軍が南で行った最後の大規模作戦活動であった。ソビエト赤軍による更なる包囲はドイツ国防軍、そして特に武装親衛隊を減少させることとなった。ブダペスト包囲戦はソビエト赤軍にとって[[ベルリンの戦い|ベルリンにおける戦い]]の最終リハーサルであった。そしてこの戦いはソビエト赤軍によるウィーン攻略作戦を開始させることとなり、ブダペスト降伏2ヵ月後の1945年4月13日、ウィーンは陥落する。
 
[[Image:Budapest medal.jpg|thumb|80px|ブダペスト戦功メダルは戦いに参加した全てのソビエト赤軍将兵に与えられた。]]
 
== 回顧録 ==
ブダペスト王宮の丘地域([[:en:Naphegy|Naphegy]]、[[:en:Krisztinaváros|Krisztinaváros]]など)での戦いはその住民の日記、回顧録から伺い知ることができる。1944年当時、15歳であった[[ラースロー・デセエー]](László Deseő)は家族とともにメーサーロシュ32番街(32 Mészáros Street)に住んでいた。この地区はブダペスト南駅近辺であったため、最も熾烈な攻撃が行われたひとつであり、丘における戦いにとって戦略的重要な地区であった。デセエーは包囲戦の間、日記をつけていた<ref>[http://www.rev.hu/html/hu/tanulmanyok/1945elott/bpostroma.htm Deseő László naplója] (Hungarian)</ref>。また、兵士アンドラーシュ・ネーメト(András Németh)の回顧録にも包囲中、彼の仲間が観測所として以前使用していた空の校舎への爆撃について記述している<ref>[http://mek.oszk.hu/02800/02801/02801.htm#7 Németh András – ''Mostohafiak''] (Hungarian)</ref>。
 
== 文献 ==
* John F. Montgomery, ''Hungary: The Unwilling Satellite''. Devin-Adair Company, New York, 1947. Reprint: Simon Publications, 2002. Available online at [http://historicaltextarchive.com/books.php?op=viewbook&bookid=7&pre=1 Historical Text Archive] and at the [http://www.hungarian-history.hu/lib/montgo/ Corvinus Library of Hungarian History].
* Gosztony, Peter: Der Kampf um Budapest, 1944/45, München : Schnell & Steiner, 1964.
* Nikolai Shefov, ''Russian fights'', Lib. Military History, M. 2002.
* James Mark. Remembering Rape: Divided Social Memory and the Red Army in Hungary 1944–1945. Past and Present 2005: 188: 133-161 (Oxford University Press).
* Krisztián Ungváry, ''The Siege of Budapest: One Hundred Days in World War II'' (trans. Peter Zwack), Yale University Press, 2005, ISBN 0-300-10468-5
* Source about soviet casualties, estimated at 80,000, not 160,000: http://www.victory.mil.ru/war/oper/15.html
 
== 脚注 ==
<references/>