「国内軍 (ポーランド)」の版間の差分

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国内軍への迫害はポーランドの[[スターリン主義]]の大きな目標の1つであった。[[1944年]]から[[1956年]]の期間、およそ200万人<ref name="Rzecz"/>が逮捕され、2万人、[[オシフィエンチム|アウシュヴィッツ]]の英雄である[[ヴィトルド・ピレツキ]]が共産主義の刑務所で処刑・殺害された<ref name="Rzecz"/>。そして、600万人のポーランドの市民(すなわちポーランド人の成人の1/3)は国家組織による調査に対して抵抗し、「反動的もしくは犯罪の要素あり」と分類された<ref name="Rzecz"/>。その後、1956年に、大赦により3万5千人の旧国内軍の兵士が刑務所から釈放されたが、彼らは祖国のために戦うことを犯罪とされて、10年以上も刑務所で過ごしたことになった。
 
その一方で、農村部に残存していた一部のパルチザンは田舎のほう残存し、コミュニティを再する気がないか、もし、あるいはできない状態でいた。彼らは、「[[呪われた兵士]]」として知られるようになった。スタニスワフ・マルチェヴスカ ({{lang|pl|Stanisław Marchewska}}、{{lang|pl|"Ryba"}}) は1957年に、最後の国内軍のパルチザンユゼフ・フランチャク ({{lang|pl|Józef Franczak}}、{{lang|pl|"Lalek"}}) は1963年に殺害された<ref name="Rzecz"/>。このときまで、には第二次世界大戦が終了して約20年経過していた。それから4年経過した1967年に、国内軍の兵士でイギリスで訓練を受けた潜伏者 ({{lang|pl|Cichociemny}}) 情報支援グループの一員でエリートであるアダム・ボリチュカ ({{lang|pl|Adam Boryczka}}) が刑務所から釈放された。ポーランド人民共和国の崩壊まで、国内軍のメンバーは秘密警察による監視の対象であっにされていた。そして、共産主義体制が崩壊した後、1989年にポーランドの裁判所により国内軍の兵士に対する判決が最終的に無効となった<ref name="Rzecz"/>。
 
== 組織構成と人員 ==
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