「貴志康一」の版間の差分

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 母の実家の仙洞御料屋敷西尾邸にて産声をあげる。父方の祖父は代々式部卿を務め、後に[[メリヤス]]業で成功した裕福な大商家という恵まれた環境で育つ。[[芦屋市]]に転居後、[[神戸市]]の[[深江文化村]]で[[ミハエル・ウェクスラー]]に直接[[ヴァイオリン]]を師事。[[甲南中学校・高等学校|旧制甲南高等学校]]中退後、[[ジュネーヴ音楽院]]を優秀な成績で修了。その後[[ベルリン芸術大学|ベルリン高等音楽学校]]で[[カール・フレッシュ]]の教室に在籍。[[1929年]]、1710年製の[[ストラディヴァリウス]]を購入。三度のヨーロッパ留学の中でも、特に1932~35年の[[ベルリン]]滞在時に[[作曲家]]・[[指揮者]]として活躍し、同時期にドイツ[[テレフンケン]]社に自作作品19曲を貴志自身の指揮で[[ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団]]と録音した。また[[ヴィルヘルム・フルトヴェングラー|フルトヴェングラー]]とも親交があったことで知られる。[[ヴァイオリニスト]]から作曲・指揮者に転向したと言われるが、作曲・指揮活動で多忙になってからもヴァイオリニストとしての活動も諦めてはいなかった。[[1935年]]に帰国した後は指揮者などとして活躍するが、1937年、[[心臓麻痺]]の為28歳の若さで[[夭折]]した。貴志の墓は[[京都市]][[右京区]]にある[[妙心寺]]徳雲院にある。
 
 尚1936年には三回日本で[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の[[交響曲第9番 (ベートーヴェン)|第九]]を指揮している。その内の1回は新交響楽団(現[[NHK交響楽団]])2月19日146回定期演奏会におけるものである(日本初の暗譜指揮による「第九」演奏であった)
 
 [[湯川秀樹]]の[[ノーベル物理学賞]]受賞の後の晩餐会の時に彼の曲が流れたことは有名である。
母校の甲南高等学校には貴志康一資料室があり彼の作品に触れることができる。甲南高等学校元教員日下徳一による『貴志康一──よみがえる夭折の天才』([[音楽之友社]]、2001年)、および毛利眞人による評伝「貴志康一──永遠の青年音楽家」([[国書刊行会]]、2006年)が出版され、また[[小松一彦]]らが貴志康一の曲を復活させ話題を呼んでいる。
 
 生誕100周年に当たる[[2009年]]3月31日、「貴志康一生誕100年記念コンサート」が[[小松一彦]]指揮[[大阪フィルハーモニー交響楽団]]の演奏でザ・シンフォニーホールにて行われた。ソプラノ坂本環、ソロ・ヴァイオリニストに[[小栗まち絵]]を迎え、歌曲「天の原」「[[かごかき (歌曲)|かごかき]]」「赤いかんざし」「力車」、ヴァイオリン協奏曲、交響曲「仏陀」が演奏された。
 
== 代表曲 ==