「神戸海軍操練所」の版間の差分

坂本龍馬については勝自身による氷川清話の記載があるので正面から否定するにはソースが必要。いったん戻す。
(坂本龍馬については勝自身による氷川清話の記載があるので正面から否定するにはソースが必要。いったん戻す。)
しかし、[[八月十八日の政変]]で失脚した[[長州藩]]が[[京都]]へ進攻した[[禁門の変]]の責を問われて勝は軍艦奉行を罷免される。さらに土佐脱藩浪士や長州に同情的な意見を持つ生徒が多かったこの操練所は、幕府の機関でありながら反幕府的な色合いが濃いとして翌年[[1865年]]に閉鎖された。
 
ちなみに、神戸海軍操練所と勝海舟個人の私塾([[神戸海軍塾]])は別物として考えねばならないという説が、[[松浦玲]]や[[篠原宏]]といった研究者から出されている。
 
== 主な塾生 ==
*[[坂本龍馬]]:塾頭。[[勝海舟]]に見出され、操船術を学ぶ(勝海舟『[[氷川清話]]』)が、そのほとんどは我流であった。脱藩後の活動の舞台であった操練所の閉鎖と、師である勝の罷免は彼を失望させ、これ以後倒幕運動に本腰を入れ始める。操練所解散後は、ここでの経験を生かし[[亀山社中]]を結成する。(ただし、これに対しては、龍馬は神戸海軍操練所には入れず、勝海舟個人の私塾の塾頭でもなく、また、勝海舟の私塾を取り仕切っていたのは龍馬ではなく、[[佐藤与之助]]であったとする説もある([[松浦玲]]など){{fact}}。)
*[[佐藤与之助]](佐藤政養):塾頭。[[庄内藩]]出身。勝の一番弟子で[[長崎海軍伝習所]]にも学ぶ。[[横浜港]]開港を提起した他、維新後は鉄道敷設に尽力した。
*[[陸奥宗光]]:[[紀州藩]]出身坂本の引き立てによって副長格となる。竜馬の秘書的な役割を担った。後の[[日清戦争]]時、[[外務大臣]]。
*[[坂本龍馬]]:勝に見出され、操練所設立のための資金集めにも尽力した。操船術を学ぶが、そのほとんどは我流であった。操練所解散後は、ここでの経験を生かし[[亀山社中]]を結成する。{{要出典範囲|塾頭(あるいは塾長)とする説は[[坂崎紫瀾]]による創作。|2010年4月8日 (木) 05:55 (UTC)}}
*[[陸奥宗光]]:[[紀州藩]]出身。後の[[日清戦争]]時、[[外務大臣]]。
*[[伊東祐亨]]:[[薩摩藩]]出身。後に初代[[連合艦隊司令長官]]となり、[[黄海海戦 (日清戦争)|黄海海戦]]の指揮をとる。
*[[北添佶摩]]・[[望月亀弥太]]:[[土佐藩|土佐]]脱藩。坂本の制止を振り切り[[池田屋事件]]に関与。これが元で勝海舟の立場が悪くなったとも言える。
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