「橋津川の戦い」の版間の差分

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==戦いの影響==
武田らが伯耆で尼子と戦っている間、[[山名祐豊|山名宗詮]]は[[因幡国]]において[[山名久通]]を追い詰めていた。(『[[陰徳太平記]]』の伝える山名祐豊の[[鳥取市|取]]滞在はこのことを指しているようである)久通の重臣である[[新山城]]番の[[中村政重]]を引き抜くことに成功した宗詮は[[布勢天神山城]]を攻撃した。攻撃後、立見峠に久通を誘い出した宗詮は新山城からの伏兵と共にこれを殺害した。ちなみに久通の殺害は橋津川の戦いと並行して行われたと見られている。橋津川では負けたものの、久通の殺害に成功した宗詮はこの後、半年をかけて因幡内の久通勢力の掃討を行った。[[天文 (日本)|天文]]15年([[1546年]])の[[冬]]には因幡一円は但馬の勢力下に置かれ、[[守護]]には但馬方の人間が送り込まれた。しかし、南因幡の山間部には依然として[[因幡毛利氏]]、[[矢部氏]]、[[草刈氏]]などの反但馬勢力が根強く残っており、宗詮はこの後もこれらの対応に苦慮していくことになった。
 
==関連項目==
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