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{{クラシック音楽}}
{{クラシック音楽}}'''セルジュ・ボド'''('''''Serge Baudo''''', [[1927年]][[7月16日]] [[マルセイユ]] - )は[[フランス]]の[[指揮者]]・[[作曲家]]。'''ボード'''とも表記される。[[オーボエ]]奏者のエティエンヌ・ボドを父親に、[[ポール・トルトゥリエ]]を叔父に、音楽家の家庭に生まれる。
 
== 人物 ==
[[オーボエ]]奏者のエティエンヌ・ボドを父親に、[[ポール・トルトゥリエ]]を叔父に、音楽家の家庭に生まれる。
 
[[パリ音楽院]]で[[和声法]]と[[指揮 (音楽)|指揮法]]のクラスで首席となった後、[[ラムルー管弦楽団]]の[[打楽器]]奏者として音楽活動に入る。また国内の放送局で作曲家として活動を始め、[[ルイ・マル]]や[[ジャック=イヴ・クストー]]らの映像作品に楽曲を提供した。
 
指揮者としては[[1959年]]に活動を開始し、[[1962年]]には[[ヘルベルト・フォン・カラヤン]]の代役として[[ミラノ]]・[[スカラ座]]で[[クロード・ドビュッシー|ドビュッシー]]の抒情劇《[[ペレアスとメリザンド_(ドビュッシー)|ペレアスとメリザンド]]》を指揮して、一躍名を馳せる。

長年にわたって[[エクサン・プロヴァンス音楽祭]]の常連指揮者としても成功をおさめてきた。また、創設まもない[[パリ管弦楽団]]の指揮者を、[[1969年]]から[[1987年]]まで[[リヨン国立管弦楽団]]の芸術監督を、[[2001年]]から[[2006年]]の末まで[[プラハ交響楽団]]の首席指揮者を務めた。

[[チェコ・フィルハーモニー管弦楽団]]とは[[アルテュール・オネゲル|オネゲル]]の[[交響曲]]全集や、ドビュッシー管弦楽曲集の録音を残している。
 
一般には、[[エクトール・ベルリオーズ|ベルリオーズ]]以降の近代フランス音楽の専門家と思われがちだが、[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]や[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]も得意としている。