「上山満兼」の版間の差分

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[[上山氏]]は[[天童氏]]の分族である。この事から里見を名乗ることもあった。満兼もまた天童氏に協力した。祖父の代からは[[武衛氏]]を名乗った。満兼自身も武衛義政を名乗った。
 
満兼は[[中野義清]]の娘([[最上義守]]の妹)を娶って[[最上氏]]と縁戚を結び、また本家に当たる[[天童氏]]とも連絡を取る。さらに、曾祖父・[[上山義房|義房]]の代から敵対する[[伊達氏]]との関係改善に努め、領内の安定化を図った。[[天正最上の乱]]では当初[[最上義光]]に加担したが、[[最上義守]]方についた伊達軍が上山付近の樽下に進軍すると、義光方を裏切り、伊達軍の通過を許した。このため最上義光と対立。和議破綻後の[[天正]]6年([[1578年]])、満兼は[[伊達輝宗]]と連合し[[最上氏]]を攻め、最上方は大きな被害を受けた。この事から満兼は義光に警戒されることとなる。また満兼は天童氏の分族であり、[[最上八楯]]に協力していた。天正5年([[1577年]])には天童・最上の戦が勃発しており、和議があったとはいえ、満兼は天童・伊達という最上ら反義光敵と協と連絡を取っているため義光は警戒していた。天正8年([[1580年]])、最上家臣・[[氏家守棟]]、[[谷柏直家]]らの調略を受けた満兼の重臣であり一門でもある[[里見義近]]・[[里見民部]]親子が義光に内応。民部は自身の一族で満兼派兄・[[里見内蔵助]]は民部にされ、満兼は義光に攻められる。里見民部が内部から攻撃して満兼を討ち取り、満兼は死亡した。上山城主は里見民部が就き、上山里見氏は形式上存続したと思われる。
 
== 参考文献 ==