「売国奴」の版間の差分

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[[江戸時代]]後期には、幕府の[[鎖国]]政策を批判した「[[尚歯会]]」、[[渡辺崋山]]らのグループを処罰する事件が起こった(『[[蛮社の獄]]』)。[[儒学]]を基盤にした[[尊王論]]を説いた[[竹内式部]]、[[山県大弐]]も幕政を批判する者として追放や処刑に処せられた。
 
[[幕末]]になると、[[大老]][[井伊直弼]]は、急進的な[[尊王攘夷論]]と開化を唱え始めた[[一橋慶喜]]派と、[[長州藩]]の[[吉田松陰]]、[[福井藩]]の[[橋本左内]]らを売国勢力と位置付けて処罰したが([[安政の大獄]])、逆に[[水戸]]浪士らの[[桜田門外の変]]を生んだ。[[公武合体]]政策を進めた[[老中]][[安藤信正]]も襲撃され([[坂下門外の変]])、[[保守派]]は[[会津藩]]と結んで[[八月十八日の政変]]後に[[長州藩]]を[[朝敵]]と位置付けて[[長州征伐]]を開始した。その後、逆に[[欧米]]の軍事技術を取り入れた[[薩摩藩]]・[[長州藩]]が幕府の戦力を上回るようになり、[[イギリス]]と手を結んで討幕へと動いた([[王政復古の大号令]])。
 
[[小御所会議]]後も、旧[[幕臣]]や[[会津藩]]([[白虎隊]])・[[桑名藩]]、[[奥羽越列藩同盟]]らはなおも[[薩摩藩]]・[[長州藩]]と戦闘を続けたが([[新選組]]、[[戊辰戦争]]、[[鳥羽・伏見の戦い]]、[[五稜郭の戦い]])、欧米の戦闘技術を取り入れた薩長に敗北した。[[明治新政府]]の近代化はあまりにも急激で、国民生活の実情を無視していたため、しばしば[[農民一揆]]などは起こり続けた。次に「[[征韓論]]」をめぐって政府が割れ、[[江藤新平]]、[[西郷隆盛]]らは政府を売国と位置付け兵をあげた([[西南戦争]])。
 
そのため一部の[[佐幕派]]・[[大名]]、[[公家]]や[[幕臣]]からは[[元勲]]([[薩長土肥]])を売国奴して位置付けたり、[[幕臣]]や[[旗本]]、[[御家人]]でありながら明治政府に出仕して[[爵位]]を貰う[[勝海舟]]や[[榎本武揚]]等を売国として糾弾する動きもあった([[痩我慢の説]]、[[栗本鋤雲]])。政府内では[[山県有朋]]が、[[社会主義]]を売国であると批判して、[[長州藩]]・[[薩摩藩]]の[[藩閥]]政治に従わない者を露骨に冷遇した。のちに思想警察として[[特別高等警察]](特高警察)を発足させ、[[共産主義]]や日本政府批判を厳しく取り締まった。国家主義を主張する雑誌も創刊され([[三宅雪嶺]])、[[大正]]に入ると[[護憲運動]]が盛んになった。
 
[[日清戦争]]、[[日露戦争]]、[[世界大戦]]や[[冷戦]]を経て、近年では、日本の[[技術]]の他国への流出や、日本の国益に基づかない高額の[[ODA]]や[[円借款]]、[[構造改革]]による[[外資系]]企業への「日本売り」、[[日本における外国人参政権|外国人参政権]]、[[朝鮮学校]]の授業料無償化の導入推進などを「売国行為」、「売国奴」とする傾向もある。