「歌声喫茶」の版間の差分

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リーダーの音頭のもと、店内の客が一緒に歌を歌うことを主目的としている。伴奏は[[ピアノ]]や[[アコーディオン]]のほか、大きな店では生[[バンド_(音楽)|バンド]]も入っていた。歌われる歌は[[ロシア民謡]]、[[唱歌]]、[[童謡]]、[[労働歌]]、[[反戦歌]]、[[歌謡曲]]など。店が独自に編纂した歌集を見ながら歌うこともできる。
 
[[1950年]](昭発祥については諸説あり、{{25年)暦|1950}}ごろ、[[新宿]]の料理店が店内でロシア民謡を流していたところ、自然発生的に客が一緒に歌い出して盛り上がり、それが歌声喫茶の走りになったといわれる。また、当時公開された[[ソ連]][[映画]]「[[シベリア物語]]」に同様なシーンがあり、これに影響されたともいわれている<ref>[http://www.ikiiki9pon.net/kiji/bunka/index_0607.shtml 歌声喫茶のころ]</ref>
 
[[1955年]](昭{{30年)暦|1955}}、新宿に「カチューシャ」、「灯(ともしび)」がオープン。これをきっかけに[[東京都]]内に歌声喫茶が続々と誕生する。[[労働運動]]、[[学生運動]]の高まりとともに人々の連帯感を生む歌声喫茶の人気は上昇し、店内は毎日のように人であふれ、最盛期には全国で100軒を超える店があったという。また店の看板的存在であるリーダーの中からは、[[さとう宗幸]]や[[上条恒彦]]のようにプロの歌手としてデビューした者もいた。
 
歌声喫茶は[[うたごえ運動]]という政治運動において大きな役割を果たしたが、それだけでなく、[[集団就職]]で地方から単身上京してきた青年たちの寂しさを紛らす心のよりどころでもあった。
 
[[1965年]](昭{{40年)暦|1965}}頃をピークに、歌声喫茶のブームはうたごえ運動の退潮に連動して急速に衰退、その後の10年ほどでほとんどの店が閉店していった。
 
さらに、[[1970年代]]後半の[[カラオケ#カラオケ文化|カラオケスナック]]、[[1980年代]]の[[カラオケボックス]]の出現と、「人前で歌を歌える施設」への需要は、完全にそちらに移行した。歌声喫茶は一般の喫茶店やカラオケボックスとは異なり、客全員が合唱する形態のため、飲食物の注文が少なく客単価が低いという根源的な問題があったからである。