「浜田広綱」の版間の差分

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気仙地方の旗頭で陸前高田の[[東館城]]主。[[1586年]]の歌津合戦で[[本吉重継]]を撃破し併合。
[[1587年]]、[[気仙沼]]の宿敵[[赤岩城]]主[[熊谷直義 (陸奥熊谷氏)|熊谷直義]]と決戦に挑むが主君の葛西氏が熊谷氏を支援し、熊谷勢の伏兵に遭うなどして戦線が膠着したため、一度は停戦。しかし、翌年[[1588年]][[3月 (旧暦)|3月]]には再び所領減の措置を不服とし、及川氏に奪われていた米ヶ崎城を奪回するが敗北([[浜田兵乱]])、所領を失った。跡目は三男[[浜田信綱]]が引き継いだ(重俊・信雄は近隣の国人・[[江刺氏]]へ養嗣子として入っていた)が、[[奥州仕置]]で改易され、[[葛西大崎一揆]]に加担。[[伊達政宗]]により謀殺されたため勢力を失い、広綱は隠遁し、70歳でその生涯を終えた。
 
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