「チェコスロバキア共産党」の版間の差分

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その後、共産党はアダメッツが書記長となり、[[1990年]]2月にフサークを除名して、マルクス・レーニン主義と共産党の名称を維持しながら新たなイメージを打ち出そうとした。また、連邦制によるチェコとスロバキアの対等性を重視するため、3月に[[ボヘミア・モラビア共産党]]を設立し、スロバキア共産党との協調によってチェコスロバキア共産党が運営される事になった。
 
[[6月8日]]、チェコスロバキアで44年ぶりの自由選挙が行われた。共産党は連邦議会([[下院]])・民族議会([[上院]])ともに第2党を守り、影響力を維持したが(民族議会選挙での全国得票率は13.6%)、市民フォーラムが両院で過半数を占めたため、政権復帰はならなかった。また、選挙後にスロバキア共産党の主流派は党名を[[民主左翼党 (スロバキア)|民主左翼党]]へ変更し、[[社会民主主義]]路線を採用して、チェコスロバキア共産党から離脱した。すぐに一部の残留派によってスロバキア共産党は再建されたが、その勢力は大きく削がれていた。
 
1992年総選挙では、チェコとスロバキアでそれぞれ民族主義政党が勝利し、地域間対立が激化した。そして、交渉の結果、遂に[[1993年]][[1月1日]]に両国は連邦を解消し、それぞれ平和的に分離独立する事が決まった。共産党はこの「[[ビロード離婚]]」をとどめる事ができず、自らもボヘミア・モラビア共産党とスロバキア共産党に分裂する事になった。