「テトラルキア」の版間の差分

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4つのテトラルキック・キャピタル
 
;[[イズミット|ニコメディア]]:東方正帝ディオクレティアヌスの都。現[[トルコ]]領イズミット。[[アナトリア]]北西にあった。[[バルカン半島|バルカン]]方面や[[サーサーン朝]][[ペルシア]]に対する防衛拠点であり、のちのコンスタンティノポリス(現トルコ領[[イスタンブル]])とは異なる。[[318年]]の[[コンスタンティヌス1世]]による帝国再編に伴い、最大の脅威であるサーサーン朝に面するこの領域は重要性を増した。のちのオリエンス行政区(Oriens(オリエンス道、Oriens、東方)であり[[東ローマ帝国]]の中核都市。
 
;[[シルミウム]]:東方副帝ガレリウスの都。現[[セルビア]]領[[スレムスカ・ミトロヴィツァ]]{{enlink|Sremska Mitrovica}}。[[ベオグラード]]を含む[[ヴォイヴォディナ]]地方にあった。彼の担当は、バルカン半島と[[ドナウ川]]境界、[[イリュリア|イリュリクム]]行政区(イリリア道)であった。
 
;[[メディオラヌム]]:西方正帝マクシミアヌスの都。現[[イタリア]]領ミラノ。[[アルプス山脈]]近傍にあった。彼の担当領域(イタリア道)は、帝国辺縁部と[[イタリア]]、[[アフリカ]]であった。
 
;[[アウグスタ・トレウェロルム]]:西方副帝コンスタンティウス・クロルスの都。現[[ドイツ]]領[[トリーア]]。ローマから遠く離れた地にあった。この地は防衛戦略上重要な[[ライン川]]境界に近く、かつては[[ガリア帝国|ガリア皇帝]][[テトリクス1世]]{{enlink|Tetricus I}}が拠点としていたが、四半世紀を経てガリア行政区(ガリア道)となっていた。
 
これら4都市のほか、[[アドリア海]]に面した港町[[アクイレイア]]、[[スコットランド]]と[[アイルランド]]の[[ケルト人]]勢力に接する[[イングランド]]北部のエボラクム{{enlink|Eboracum|}}(現[[ヨーク (イングランド)|ヨーク]])もまた、マクシミアヌスとコンスタンティウスにとって重要な防御拠点であった。地方統治に関しては4人の皇帝に正確な領域区分は定められていなかった。テトラルキアはローマが4つに分裂したという状態を意味するものではない。4人の皇帝はおのおの勢力範囲を持っていたが、それは最高軍事指揮権を主としており、自身が出陣することも頻繁にあった。その間は各皇帝の近衛府長官や知事、総督を長とする官僚組織からなる行政府が執政を代行していた。