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[[7世紀]]前半にチベットを統一した[[吐蕃王朝]]第33代[[ソンツェン・ガンポ]]により[[チベット]]の都と定められ、[[641年]]には中国の公主([[唐]]王室の皇族女性)がチベットのツェンポ(王)の妃として迎えられた。伝承では、このとき[[ネパール]]王女も同時に妃に迎えられ、二人がもたらした仏像を本尊として納めるため、[[トゥルナン寺]]、[[ラモチェ寺]]が建立され、市街形成の核となったとされる。
 
[[9世紀]]の[[吐蕃王朝]]の崩壊以後、チベットの政治的中心は、時期ごとの覇者たちの所在地を転々としたが、宗教的中心地としての地位は不動であった。[[1414年]]には[[ラサ三大寺]]の筆頭[[ガンデン寺]]の建立をかわぎりに[[ゲルク派]]の本拠地となり、17世紀中期には熱心な[[ダライ・ラマ]]の信者であった[[オイラト]]・[[ホショト]]部の[[グシ・ハン王朝|グシ・ハン]]がチベットの大部分を征服したことをきっかけとして、[[ダライ・ラマ]]の宗派を超えた宗教上の最高権威としての地位が確立され、諸宗派に対する[[ゲルク派]]の優位、とりわけ[[モンゴル]]におけるゲルク派の優勢が決定的となった。この結果、ラサは再びチベット全域の政治的、経済的、文化的中枢の地位を獲得しただけでなく、チベット人、[[モンゴル人]]、[[満州人]]などから構成される[[チベット仏教文化圏]]の中心ともなった。
 
[[1642年]]に成立したダライラマ政権は、当初歴代ダライラマの居館があった[[デプン寺]]の[[ガンデンポタン]]に置かれ、行政府の呼称はこれにちなんで「ガンテンポタン」とされた。政権の拠点として[[ポタラ宮殿]]の建設が[[1645年]より開始され、[[1660年]に完成したが、ポタラ宮殿への移転後も、行政府の「ガンデンポタン」という呼称は継承された。
 
ダライラマ政権の発足により、ラサは再びチベット全域の政治的、経済的、文化的中枢の地位を獲得しただけでなく、チベット人、[[モンゴル人]]、[[満州人]]などから構成される[[チベット仏教文化圏]]の中心ともなった。
 
== 古都ラサの構造 ==